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エイサーにおける沖縄らしさ

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1. 伴奏楽器だった太鼓が踊り出した締太鼓型エイサー

エイサーというと、テレビや新聞、雑誌などのマスメディアでは、大太鼓や締太鼓を勇壮に打ち鳴らす姿が好んで描かれます。そのため大太鼓や締め太鼓を激しく打ち鳴らすエイサーが、エイサーらしいエイサーとしてイメージされることが多いのではないでしょうか。

しかし、このようなエイサーは締太鼓型エイサーとでも名づけられるもので、かつてはそれほど一般的なものではありませんでした。

エイサーの古い形は念仏エイサーであり、それが明治・大正時代の頃にモーアシビの要素が加わって現代のエイサーの形になったとされます。
念仏エイサーがモーアシビの要素を盛り込んだエイサーに変貌するのは、明治時代半ば(1900年前後)のこととされます。

エイサーで使用する曲目の例を見ると、《久高節》《仲順流節》《越来よー節》《いちゅび小節》《伊集ぬ腰小節》《収納奉行節》などとなっています(宜保榮治郎『エイサー:沖縄の盆踊り』より)。そのうちの《久高節》《仲順流節》の二曲はチョンダラー系統の歌謡ですが、それ以外はモーアシビ系統の歌謡です。

モーアシビから生成したエイサーの素朴な形は、地謡(じかた)の歌に踊り手が囃子を返すというものでした。大太鼓や締太鼓は拍子をとるための伴奏楽器にすぎなかったのです。伴奏楽器である太鼓が踊りだすようになったのが、締太鼓型エイサーだといえるでしょう。

しかし、伴奏楽器である太鼓がいつ頃から踊りだして締太鼓型エイサーという形になったのか、はっきりしたことはわかりません。

2. エイサーコンクールで太鼓が踊るエイサーが流行した!

締太鼓型エイサーの起源は不明ですが、締太鼓型エイサーが爆発的に流行した時期は明確です。1956年にコザ市(現沖縄市)で沖縄全島エイサーコンクールが始まってからのことです。

コザ市は、もともとは越來(ごえく)村という地名だった。1945年4月、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字嘉間良(かまら)一帯に宣撫隊本部を、同村字胡屋(ごや)に野戦病院・物資集積所等を建設、「キャンプ・コザ」と呼んだことにより通称コザと呼ばれるようになったものだ。1946年4月に元の越來村に戻ったが、1956年6月にコザ村と改称、翌7月に市に昇格し、以後、沖縄島中部の中心都市として発展することになる。1974年4月1日に美里村と合併して沖縄市となり、コザ市という名称は消滅している。

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1956年にコザ市で全島エイサーコンクールがスタートします。コンクール形式のこのエイサー大会は、1976年まで21回開催され、優劣を競う大会の中で、エイサーは「沖縄らしさ」を表出するものに変化していくことになります。

締太鼓型エイサーの生成については不明な点が多いのですが、このエイサーコンクールの中で型の完成を遂げ、普及発展したことは明らかです。
芸能研究の久万田晋によると、戦前のエイサーは太鼓もほとんど使わず、地謡の歌三線に合わせ、輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なものだといいます。

戦前のエイサーは今よりずっと簡素なものだった。名護一帯では明治後期から扇や采(ゼー)などの小道具を使う優雅な手踊りが盛んだった。与勝半島地域では昭和以前からパーランクーを使うエイサーが発達していたようだ。しかし、それ以外の多くの地域のエイサーは、戦前までは太鼓もほとんど使わず、地方の歌三線に合わせ、輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なものだった。(久万田晋「謡たい踊たい・沖縄芸能の百年」(6)、2000年10月5日沖縄タイムス 夕刊)

そのような素朴なエイサーが、数万人もの観客を前にした全島エイサーコンクールを契機にして、「見せる」芸能へと変容していくことになります(小林幸男「エイサーの分類」『エイサー360度』)。

3. 締太鼓型エイサーが沖縄らしさの表象になっていく

全島エイサーコンクールは1956年から1976年までの21年間、コンクール形式で行われます。優勝の内訳は、パーランクー型エイサーが13回で、締太鼓型エイサーが8回です。

コンクールを前期(1956〜66年)と後期(1967〜76年)に分けてみると、前期の11年間での締太鼓型エイサー(表では「太鼓型」としている)の優勝は2回であり、後期の10年間の優勝は6回です。

1950年代から60年代前半まではパーランクー型エイサーが型としての完成度が高く締太鼓型エイサーを圧倒しているのに対して、60年代後半に締太鼓型エイサーがそれをしのぐようになっていくことがわかります。

1960年代後半から締太鼓型エイサーは優勝を重ねるようになり、エイサーのイメージを独占するようになっていきます。エイサーというと締太鼓型エイサーの大太鼓がイメージされるようになっていくのです。それとともに締太鼓型エイサーは沖縄らしさを表象する芸能になっていくことになるのです。

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4. なぜ締太鼓型エイサーは沖縄らしさを表象するのか

なぜ締太鼓型エイサーはエイサーのイメージを独占し、沖縄らしさを表象する芸能になっていくのでしょうか。
その要因は二つ考えることができます。

◉締太鼓型エイサーが戦後新たにできた都市(参考:連結都市圏の誕生)の中で普及発展してきた芸能だということ
◉祖国復帰運動というナショナリズムが高揚・挫折した後の沖縄アイデンティティを求める時代に(参考:ナショナリズムと沖縄)、締太鼓型エイサーがその型を完成させてきたということ

つまり空間軸(地理)から見るならば都市的なエリアに生成したエイサーであり、時間軸(歴史)から見るならば、沖縄アイデンティティが求められる時代に生成し、普及発展を遂げたエイサーであるということです。

その二つの要因があいまって締太鼓型エイサーは沖縄らしさを表象するエイサーになるのだといえるでしょう。

5. 基地と連結都市圏

戦後の沖縄島には、旧石川市(現うるま市)から那覇市まで南西に連なる連結した都市圏が誕生します。本講義ではこの都市圏を連結都市圏と呼びます(具志堅邦子「連結都市圏の出現と第二のシマ社会の誕生」沖縄国際大学大学院地域文化論叢12による)。

沖縄島の中南部には人口の集中があり、巨大都市の様相を呈しています。その巨大都市を沖縄コナベーションといいます。コナベーションというのは、発生を異にする複数の隣接する都市が発展し、行政区分の境界を越えてつながって一つの都市域を形成している状態のことをいうものです。

沖縄コナベーションというのは戦後70年余にわたって形成されてきた都市域です。それは都心と郊外というイメージを含む都市域となります。本講義の連結都市圏で重視するのはそれとは異なり、きわめて短期間で生成した都市域であること、都心と郊外というイメージを持たないということに力点を置いています。

連結都市圏に含まれるのは旧石川市(現うるま市)、旧具志川市(現うるま市)、沖縄市、嘉手納町、北谷町、宜野湾市、浦添市、那覇市です。
この都市圏は1950年前後の5年ないし10年で急速に形成された都市圏です。戦前まで純農村地域だったエリアに、極めて短期間に誕生した巨大都市なのです。そのエリアの中で戦前から都市だったのは旧那覇市と旧首里市くらいでした。

戦前の那覇市には現在の小禄支所区域、真和志支所区域、新都心区域、首里支所区域は含まれておらず、港を中心とした都市で、1940年の国勢調査人口は65,765人、旧首里市は現在の首里支所管轄のおよそ南半分にあたる区域であり、1940年人口は17,537人だった。両市合わせても81,302人の人口であり、戦前から続く都市といえるのはそれくらいだった。

旧那覇市、旧首里市ともに、連結都市圏というエリアから見るならば点としての存在にすぎず、都心を形成することはありませんでした。旧那覇市は1950年代初頭まで米軍に占拠され、その後に区画整理事業に入ったので、連結都市圏の形成期には都心としての機能は失われていたのです。

1950年の国勢調査人口は旧那覇市で44,790人であり、旧首里市は20,014人で、両市合わせて64,804人と戦前よりも人口減少しており、連結都市圏という巨大都市の都心機能を果たすには弱体化していたといえよう。

つまり、連結都市圏は核になる都心部があって形成された都市ではなく、米軍基地に接収されなかった原野や墓地地帯に大量の人々が流入して出現した都市なのです。

沖縄を占領した米軍は、戦後、沖縄の人々が収容所に収容されているあいだに広大な基地を建設しました。それらの基地の多くは、見晴らしの良い高台に建設されました。そのような場所は人の住まいに快適な土地であり、戦前には多くの集落があった場所でした。

収容所から解放された人々の多くは帰るべき故郷や家を失い、基地の傍らの原野や墓地地帯に集住しました。集落や耕地に適した土地は、その多くが米軍基地として接収されていたからです。このエリアに米軍支配下にあった北は奄美諸島から南は八重山諸島、与那国島までの人々が移住し、きわめて短期間で連結する都市群を形成したのです。

連結都市圏が誕生した要因は二つあります。

◉ 沖縄島の中部と那覇市に広大な米軍基地が造られ、多くのシマ(集落)が米軍の銃剣とブルドーザーによって住まいと耕作地を奪われ、米軍基地の周辺に集住せざるを得なくなったこと
◉ 米軍支配下で日本への渡航が制限され、戦前までは日本へ出稼ぎに行っていた人々が就業の場を失い、米軍基地の周辺に集住せざるをえなかったということ

戦時中の沖縄は凄惨な地上戦により壊滅的な被害を受けたのですが、戦後、そこへ海外・県外からの引揚者、奄美諸島からの移住者などが加わり、人口過剰の状態を引き起こしました。

このような人口過剰の状態に加え、さらに米軍基地の建設により多くの人々が故郷に戻ることのできないディアスポラ(離散)の状態に陥ってしまいました。このような混乱の中で、きわめて短期間のうちに連結する都市圏が生成してしまったのです。

この連結都市圏のなかで、ウチナーンチュ(沖縄の人)というアイデンティティが形成されていくことになるのです。

6. 異郷の地と異民族支配の中でウチナーンチュ意識は強固になる

ウチナーンチュというアイデンティティは自明のものではありませんでした。奄美諸島から与那国島までのエリアに先住する人々は、ウチナーンチュである前にシマンチュ(シマの人)でした。シマだけで宗教的にも社会的にも自己完結し、自律した世界を形成していたのです。

ウチナーンチュというアイデンティティは、シマを離れた異郷の地で形成されます。戦前は関西や京浜地方など沖縄系住民の集住する異郷の地で、ウチナーンチュというアイデンティティが形成されました。異郷の地ではじめて、シマを超えたウチナーンチュという意識が芽生え、ウチナーンチュというアイデンティティが形成されたのです。

戦後の沖縄島に誕生した連結都市圏も、多くのシマンチュにとっては異郷の地でした。なぜ異郷の地だったのでしょうか。それは言語や文化の異なる人々の集住する、多文化共生社会だったからです。

シマから離郷したシマンチュにとって、連結都市圏は異郷の地でした。異郷の地で言葉や文化の異なるタシマ(他シマ)の人々と混住する中で、同胞としてのウチナーンチュ意識は芽生えていくことになります。

なぜなら連結都市圏が成立したエリアは、異民族である米軍支配のエリアだったからです。直面する異民族支配の中で、ウチナーンチュ意識は強固に確立されていったものとみてよいでしょう。

7. 第二のシマ社会とリゾーム

連結都市圏は、都心を中心に発達した都市ではありませんでした。奄美諸島から八重山諸島、与那国島までの広範囲の人たちが、短期間に大量に移動してできあがった都市圏でした。そこは自ずと多文化共生のエリアとなります。

出自のシマから連結都市圏に移住した人々は、地縁血縁を共にする者たちが肩を寄せ合って住まい、都市の中に第二のシマ社会を築きました。

第二のシマ社会とは、連結都市圏の中で、シマ出身者どうしが冠婚葬祭によって結びつき、出自のシマとの精神的な紐帯を保ったまま、住まいの近接した強固な相互扶助組織を形成した、ささやかなコミュニティをイメージするものです。

それは市町村単位やシマ単位の郷友会よりもさらに密接な人間関係を保持したコミュニティであり、異郷の地であるがゆえに、出自のシマでの相互扶助よりも、なお強固な相互扶助意識によって支えられていたといえます。

連結都市圏に形成された無数の第二のシマ社会は、ヒエラルキー的なツリー(樹木)型の秩序ではなく、リゾーム(根茎)的なネットワークによって地域社会を形成して行きました。

 「リゾーム」とは、もともと地下茎の一種である根性茎を意味する語。いわば中心を持たないネットワーク状のもの、あるいはそうした思考法のことをいう言葉だ。フランスのポストモダンの思想家ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリによって提唱された概念である。(小川仁志『哲学用語事典』より)

そのような多文化的で短期間に生成し、しかも既成市街地や集落にではなく原野や墓地といった日常生活での利用度の低かった土地での集住となった場合、人々はどのようにコミュニティを形成していくのでしょうか。

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そこでは地縁血縁を同じくする人々が肩を寄せ合って生活していきます。都市の中に出自のシマと臍の緒で繋がるように第二のシマ社会を形成しました。

したがって、連結都市圏のエリアに無数の第二のシマ社会が形成されたのです。第二のシマ社会による相互扶助機能が、都市生活脱落者の発生を未然に防ぎ、連結都市圏の中にスラム街が発生するのを未然に防止することができたのです。

第二のシマ社会の住民は職場縁や結婚縁、学校縁などによってタシマ(他シマ)の人との結びつきを深め、縦横無尽のネットワークを形成するようになります。そして、米軍という異民族支配に直面し、シマンチュ(シマの人)を超えたウチナーンチュ(沖縄の人)という民族的アイデンティティを持たざるを得なくなるのです。

このリゾーム的な連結都市圏の北半分のエリアに締太鼓型エイサーが生成し、普及発展を遂げていくことになります。

明治大正期に念仏エイサーがエイサーに変貌したエリアをエイサー文化圏と設定すると、締太鼓型エイサーは、エイサー文化圏と連結都市圏のオーバーラップするエリアで普及発展を遂げたことがわかります。

エイサー文化圏の特質は近代のある時期までヤガマヤーという娘宿が残存していたという点にあります。ヤガマヤーという娘宿の残っていた地域で、念仏エイサーがエイサーに変貌していくのです。

娘宿でのモーアシビは歌垣という古層の文化を色濃く残すものです。その古層の文化の残るエリアで念仏エイサーはエイサーに変貌を遂げます。そして古層の文化が残りながら急速に都市化したエリアに締太鼓型エイサーは生成し、普及発展を遂げたということになります。

8. 祖国復帰運動とエイサー

エイサーコンクールの始まる1956年の翌年に、第1回祖国復帰促進県民大会(1957年)が沖縄県青年連合会(沖青連)の主催で開催されます。沖青連というのは沖縄県の青年会の連合会で、現在の沖青協(沖縄県青年団協議会)の前身にあたるものです。そこにはシマのエイサーをおこなう青年会も当然含まれます。つまりエイサー青年たちは、復帰運動の中核を担う一員だったのです。

エイサー青年たちは超党派的な政治集会に自主的に参加しました。たとえば2010年4月25日に読谷村の運動広場で開かれた米軍普天間飛行場の沖縄県内への移設に反対する県民大会では、グラウンドに座り込む参加者の中に、それぞれのシマの青年会の名前がプリントされたTシャツを着けた若者たちが、それぞれにグループを作って座り込む姿を見ることができました。

この県民大会は自民党が実行委員会に参加するという超党派的な大会で、主催者発表によると約9万人が参加する大規模なものでした。復帰運動と同じく党派性を超えたとき、青年会は社会正義を求める運動の中核を担う団体となるのです。

復帰運動は、米軍基地撤去運動と連動するナショナリズムの運動という側面を持っていました。そのナショナリズムは「沖縄人」になるというものではなく、「日本人」になるというものでした。反米軍基地という運動は、日本という国に所属することを希求するナショナリズムに、たやすく変身することができたのです。

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9. なぜ「日本人」になろうとしたのか

なぜ「沖縄人」ではなく「日本人」になろうとしたのでしょうか。それはシマ社会という沖縄の社会の特質によるものだといえるでしょう。

シマ社会は宗教的に琉球王国の信仰ネットワークに組み入れられることはありませんでした。琉球王国による宗教的統一は、果たされていなかったのです。シマは各自の神を持っていました。宗教的に統一されることがなかったため、琉球王国の版図において、琉球人あるいは沖縄人というアイデンティティが成立することはなかったのです。

シマンチュ(シマの人)にとってのナショナリズムやウチナーンチュ(沖縄の人)というアイデンティティは、明治以降、日本という国家に組み入れられることによって、同時に形成されたものだといえます。

戦前の沖縄県の人口は50万人台で推移します。それに対して海外・県外には常時20万人程度の沖縄系の人々がいたものと推測されます。出稼ぎ・移民の比率のきわめて高い県だったのです。

海外・県外の沖縄系の人々が住んでいたのは、阪神工業地帯や京浜工業地帯という資本主義の最前線であり、南洋諸島や台湾、満洲という日本帝国主義の最前線であり、ハワイや南米などの日系社会の中でした。つまり常に日本人という抽象的な国民意識と向き合い、もっとも日本人であることが求められるエリアだったのです。

そのような境遇の中で日本人であるというナショナリズムは構築され、また異郷の地でタシマのシマンチュと混住することにより、シマを超えたウチナーンチュ・アイデンティティが形成されていくことになります。

日本人であるというナショナリズムとウチナーンチュであるというアイデンティティは、戦前は県外の地で形成され(参考:ウチナーンチュの誕生)、戦後は連結都市圏に場所を移して形成されたものといえます。連結都市圏は多くのシマンチュにとって異郷の地であらざるを得なかったのです。

戦前までは集落や耕作に適さなかった原野や墓地地帯に人々は集住します。そして新しい都市が形成されました。新しい都市への集住はタシマの人々との混住によってなされました。その中でウチナーンチュというアイデンティティは醸成されていくのです。

また連結都市圏は米軍という異民族の軍事組織によって統治されていました。そのような異民族支配が逆に、被統治者としての民族意識を生み出すことにつながっていくことになります。ウチナーンチュというアイデンティティは日本人というナショナリズムと表裏をなすものだったので、米軍基地撤去を求める運動は、日本人になるというナショナリズムにスムーズに結びついたのです。

しかし復帰の日程(1972年)が決まり、米軍基地が温存されたままの「日本」復帰であることが明確になるとともに、日本人になるというナショナリズムは急速に消滅していくことになります。日本人になるというナショナリズムが米軍基地撤去運動と連動するものだったためです。

日本人になるというナショナリズムが挫折するとともに、沖縄アイデンティティの確認が求められるようになって行きます。ウチナーンチュとは何者かという問いが湧き起ってくるのです。

10. 締太鼓型エイサーによる沖縄アイデンティティの表明

日本人になるというナショナリズムが挫折したとき、沖縄アイデンティティをもっとも的確に表現しえたものが、締太鼓型エイサーでした。

エイサー文化圏と連結都市圏がオーバーラップするエリアで、締太鼓型エイサーは普及発展を遂げます。連結都市圏は出自のシマを離れたシマンチュが第二のシマ社会を形成したエリアでした。異郷の地でタシマのシマンチュどうしが混住する中で、シマを超えたウチナーンチュ意識が芽生えていくことになります。

連結都市圏が成立したエリアは、原野や墓地でした。連結都市圏はシマを追われた者たちが住むディアスポラ(離散)の地でもあったのです。
このディアスポラの境遇が沖縄アイデンティティを育むことになります。連結都市圏の中で生成した締太鼓型エイサーは、必然的に沖縄アイデンティティを表現するものとなっていくのです。

モーアシビから生成したモーアシビエイサーや与勝半島とその周辺島嶼で発達したパーランクー型エイサーは、男女の恋心の表現をメインテーマとします。モーアシビエイサーはストレートな恋心を表現し、パーランクー型エイサーでは秘められた恋心が表現されます。

締太鼓型エイサーでは、手踊りのパートでも男女の恋心の表現に力点を置いているわけではありません。男女の恋心のように内に向かうのではなく、外に向けて激しいパッションを表明しているのです。このパッションを醸成したのは、連結都市圏に生成した沖縄アイデンティティであり、締太鼓型エイサーはその沖縄アイデンティティをストレートに表現したのだといえるのです。

沖縄アイデンティティをストレートに表現できるため、締太鼓型エイサーはエイサーのイメージを独占し、沖縄らしさを表象する芸能になって行きました。

11. 《守礼の島》(久保田青年会)にみる沖縄アイデンティティ

次の歌は久保田エイサー(沖縄市久保田)のオリジナル曲です。そこで歌われる「沖縄」はパーランクー型エイサーとは異なり、日本人というナショナリズムは払拭され、沖縄アイデンティティを高らかに歌い上げます。

《守礼の島》(久保田青年会)
守礼の島に 夜は明けて 白百合の 花匂う
あぁ御万人(うまんちゅ) 心(くくる)合ち 咲かしゃびら 平和花
情き深さよ 沖縄よ
守礼の島に 空晴れて 舞う蝶の あん美(ちゅ)らさ
あぁ我(わん)ぬ 生(う)まり島(ジマ) 沖縄よ 沖縄よ
情き深さよ 沖縄よ

ここでも「島」という言葉に留意する必要があります。通常、ンマリジマ(ウマリジマ)という表現はアイランド(Island)としての島ではなく、自分の生まれ育った集落を指すものだからです。この場合の「沖縄」は沖縄島としての沖縄ではなく、シマと表裏一体となった沖縄アイデンティティと解釈すべきものでしょう。

パーランクー型エイサーではシマンチュ(シマの人)であることと日本人であることは矛盾するものではありませんでした。シマンチュであるとともに日本人であった、あるいは日本人であることを希求したのです。

締太鼓型エイサーには、日本人というナショナリズムやアイデンティティはほとんど登場しません。シマンチュであるとともにウチナーンチュ(沖縄の人)であるというアイデンティティが高らかに謳われるのです。

この歌は大学エイサーである琉球風車(カジマヤー)の演目でもあります。琉球風車は久保田エイサーの指導を受けて結成されています。大学エイサーですから沖縄県外から入学してきた学生たちも多数参加します。県外からの学生たちも沖縄アイデンティティを高らかに謳いあげることになるのです。

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