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チョンダラーとは何者なのか

1. はじめに

エイサーの祖形は「似せ(にーせー)念仏」であるとされています。似せ念仏の「似せ」はニーセー(若衆)のことで、「念仏」は仏教的な唱える念仏ではなく芸能としての念仏踊(ねんぶつおどり)をいうものです。

念仏踊は念仏や和讃(わさん)を唱えながら、鉦(かね)、太鼓、瓢(ふくべ)などをたたいて踊る民俗芸能で、踊念仏(おどりねんぶつ)ともいわれています。平安時代から始まったとされ、鎌倉時代になって、諸国を遊行(ゆぎょう)し踊念仏を広める芸能集団が現われ、民衆に広まります。

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上の絵は『洛中洛外図屏風』(1530年頃、国立歴史民俗博物館蔵)に描かれた念仏踊で、風流踊(ふりゅうおどり)とも呼ばれるものです。市(いち)や四ツ辻で円陣になって踊り、念仏を唱えながら五穀豊穣を祈願します。

風流踊というのは、太鼓・鼓・笛・鉦などの囃子に合せて歌いながら踊る群舞で、一般には念仏踊系の風流が流行して以後の室町時代末期から近世初頭にかけて盛行した集団の踊りをいいます。

この風流踊のなかから、室町時代末に少女が踊ったややこ踊という風流踊が、歌舞伎踊(かぶきおどり)成立の母体となったといわれます。

歌舞伎は「傾(かぶ)き」の当て字で、奇抜な身なりをし、新奇・異様な行動をとることを意味していました。

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上の絵は『歌舞伎図巻』 (17世紀、徳川美術館蔵)に描かれた采女(うねめ)の踊りです。このように男装した少女が踊る歌舞伎踊から歌舞伎が成立していきます。

江戸時代になると女歌舞伎(おんなかぶき)は幕府により禁じられてしまいます(1629年)。そして女歌舞伎が禁じられた後に少年たちによる若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)がクローズアップされますが、その若衆歌舞伎も幕府により禁じられてしまいます(1652年)。女歌舞伎、若衆歌舞伎が禁じられた後に、野郎歌舞伎(やろうかぶき)が現在見るような伝統芸能の歌舞伎として完成していきます。

エイサーの祖形とされる似せ念仏には、念仏踊、風流踊、女歌舞伎、若衆歌舞伎の流れが含まれているものといえます。似せ念仏は訳すと若衆念仏ということになりますので、念仏踊から初期歌舞伎までの要素が含まれているものと想像することができるのです。

似せ念仏というのは念仏だけを指すのではなく、チョンダラー(京太郎)と呼ばれる芸能民たちの芸能を総称した言い方です。エイサーの祖形をたどると、中世・近世日本を漂白跋扈していた下級宗教家たちの宗教性・芸能性・蛮性に出合います。しかし近代以前の沖縄で踊られていた「似せ念仏」を再現するのは困難です。

エイサーは謎だらけの芸能です。考古学者が化石を掘り出して、化石の共時的な時代の再現を試みるように、考古学的な手法を用いて、残っている文献の破片から、こうであったろうと仮説的に推測していくことしかできません。

下級宗教家たちの世界観は、沖縄の社会に大きなインパクトを与えました。そのインパクトは門付(かどづけ)するエイサーに変化します。ただし現代のエイサーとは異なって、念仏系の唄のみで門付します。

エイサーの祖形が「似せ念仏」であるとすると、それはエイサーの古形と名付けていいでしょう。

エイサーの古形は、那覇市国場、南風原町喜屋武、南城市佐敷手登根、八重瀬町安里などでかつて踊られ、現在も踊り継がれています。古形のエイサーの特徴は、おもに念仏系統の歌を歌い、酒瓶を担いで集落の家々を廻り、門口で酒を乞うという門付芸能の流れでした。

そのエイサーがおもに沖縄島の南部地域にその痕跡を残しているのに対して、中北部地域では、近代になって新しい形のエイサーが誕生します。それが現在私たちが自明のものとしているエイサーです。それは似せ念仏にモーアシビの要素を取り入れたエイサーです。

モーアシビとは、沖縄のシマ社会における配偶者選択の場のことをいいます。モーとは原野のことです。アシビとは、歌垣のことです。歌垣とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗です。

モーアシビへの参加年齢は、多くのシマにおいて14、5歳からの参加であり、女性は結婚するとアシビのグループから抜けました。男性も20歳を過ぎたあたりから年寄り扱いされ、抜けていくということになっていました。

結婚が決まると、結婚に先立ってモーアシビの仲間によるワカリアシビ(別れ遊び)が催されました。成人への通過儀礼の過程にある青年男女は、まだ人間とはみなされていませんでした。神々の領域にあったのです。結婚するということは、神々の世界から人間の世界へ降りることを意味していましたので、神々の世界からの別れの宴が催されたのです。

つまり私たちが自明なものとしているエイサーは、沖縄社会の近代化とともに生成したエイサーです。

今回はエイサーがエイサーとして確立される前の段階のエイサーの祖形を考察します。

本稿では、エイサーの祖形、エイサーの古形、モーアシビエイサー、締太鼓型エイサー、パーランク型エイサーと分類しています。

これからの4回の投稿で、エイサーの動画をテクストとして、沖縄の近・現代の劇的な社会変動とからめながら、エイサーを通して沖縄の社会の可能性を考察していきます。神話的思考が現代の沖縄の社会に脈脈と流れていることを感じ取ることでしょう。

2. チョンダラーとは何者なのか

似せ念仏を踊っていたのはチョンダラー(京太郎)と呼ばれた芸能者です。それではチョンダラーとは何者だったのでしょうか。

チョンダラーとはアンニャ(行脚)村に住むチョンダラー(京太郎)とも呼ばれニンブチャー(念仏者)とも呼ばれた、下級宗教家であり、職業的芸能民だった人たちのことをいいます。

アンニャ村 ニンブチャー(念仏者)、または京太郎(チョンダラー)が居住していた地域。18世紀の初めごろ作成されたと考えられる首里古地図には、首里久場川の東方にアンニャ村と記されている。彼らは、芸能や死者儀礼に参加する人たちで、15、6世紀ごろの外来者であろうと考えられ、京都から来たとか、または袋中上人来島のときに渡来したという伝承もある。(島尻勝太郎『沖縄大百科事典』)

1924(大正13)年に国文学者の宮良当壮(みやながまさもり)が首里石嶺町と久場川町の境に位置するアンニャ村を採訪し、彼らの芸能を聞き書きして、『沖縄の人形芝居』(1925年)としてまとめました。

アンニャ村は、ニンブジャーヤー(念仏する者の家)、ヤンザヤー(万歳する者の家)とも呼ばれる半僧半俗の職能民の集落でした。宮良が採訪したとき、集落には三軒しか残っていませんでした。

アンニャ村の職能民は、死者儀礼に参加するときはニンブチャーと呼ばれました。

ニンブチャー〔念仏者〕 葬儀のとき鉦を打ち、葬列に加わって墓前で念仏歌を歌っていた人々。首里の郊外のアンニャ村に住み、葬儀があれば頼まれて鉦を打ち、念仏歌をうたい、ときには経文もよんだ。僧のいないところではその代わりもつとめたという。念仏歌は「南無阿弥陀仏」で始まり、先祖の供養や、父母の孝養をすすめるものである。(島尻勝太郎『沖縄大百科事典』)

彼らは人形を携えて、各地を巡業し、門付け芸を行なっていました。チョンダラーというのは門付け芸人を指す言葉であるとともに、門付け芸能をいう言葉でもありました。

京太郎 チョンダラー 明治初期ごろまで首里のアンニャ村を根拠地として首里近郊、中・南部まで出かけ、人形を使って数々の芸を演じた門付け芸人およびその芸能をいう。京太郎とは京都からきた太郎の意で、本土(京都)から渡ってきたといわれている。祝儀には万歳を奏し、余興に鳥刺し舞や馬頭をつけた踊りを披露した。また、俗にフトゥキ(仏)と称する人形をたずさえて人形芝居を演じ、さらに家々で法事があるときには供養の念仏歌をうたった。(当間一郎『沖縄大百科事典』)

宜野湾市新城(あらぐすく)というシマの生活を記述した佐喜真興英(1893-1925)は、1900年頃まではチョンダラーたちが巡業してきたが、それ以降はチョンダラーたちの来訪が途絶えたことを記しています。

 正月の月中にChundaraなるものが、シマの長者を訪れて祝福して立ち去った。今から二十四、五年来は彼らは絶えて来なくなった。
 彼らは長者の家の庭で小鼓を打ち歌を歌いながら、箱の中で人形を躍らせた。島の老幼男女は長者の家の庭に集まってこれを見物した。歌舞がすんでから長者の家では、彼らを二番座(仏間の隣室)に招じて御馳走(豚料理)し、米を与えて帰した。(佐喜真興英『シマの話』1925年)

1900年前後というのは土地整理事業(1899-1903)の頃にあたります。土地整理事業によって私的所有権が確立し、沖縄社会の近代化が本格的な意味でスタートする頃です。ところが、チョンダラーたちは近代化が始まるとともに、社会の表面から姿を消していくのです。

3. 海を越えてきたアンニャたち

アンニャ村のアンニャたちはいつごろ沖縄に渡ってきたのでしょうか。それは明らかではありません。

柳田國男は宮良当壮『沖縄の人形芝居』に序文を寄せ、アンニャを行者(アンジャ)の転訛としました。アンジャとは、柳田によると妻帯の毛坊主のことです。

毛坊主 有髪で、普段は農作などにたずさわり、葬式・講などの法事の際に僧の役を務めた半僧半俗の者。(大辞林 第三版)

柳田は文献上に現われるアンジャという言葉に言及して、それに基づいて、首里のアンニャたちが海を越えて移住してきた時期も、およその年代を推定することができるだろうとしています。

古くは寺賤とも名づけた寺々の世襲の下役人のごとき者を、ある時代にアンジャと呼ぶことが流行したのである。首里のアンニャが海を越えての移住も、これに由っておよその年月を算えることが出来よう。(柳田國男「小序」1924年『沖縄の人形芝居』)

柳田はアンジャという言葉が文献上に出現した出典を挙げ、その古い記録は1427年だとし、それ以降にアンニャたちは沖縄へ移住したのだろうとしています。

国文学者の折口信夫は、袋中(たいちゅう)上人の渡海の前に、すでにアンニャたちによる念仏宗の地盤はできていたものとみています。袋中上人というのは『琉球国由来記』(1713)で言及された僧侶で、1603~06年までの三年間の沖縄滞在中に念仏を広めたとされています。

本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧(浄土宗、日本人。琉球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏教文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ。是念仏ノ始也。(『琉球国由来記』)

折口は、『琉球国由来記』のこの記述を念仏の権威づけと見ました。袋中上人が渡来して念仏が広まったのでなく、念仏がすでに広まっている地域に高僧が渡来して、念仏の権威づけを行ったのだと折口は説いています。

かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。
念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチユウ)の渡海があつたものと見てよい。(折口信夫「組踊り以前」1929年)

「ふし踊り」というのは琉球王国で大成した古典舞踊のことをいいます。念仏だけではなく、王朝の古典舞踊に大きな影響を与えたのが、アンニャたちによる芸能だと折口は指摘しているのです。

柳田と折口の見方を勘案すると、アンニャたちが沖縄に渡来した時期は、およそのところで、1429年の琉球王国の成立の時期から1609年の島津侵入までということになるでしょう。その時代は琉球王国の黄金時代です。

4. イフーナムン(異風な者)――異類異形


沖縄に渡来したアンニャとはいったい何者だったのでしょうか。それは中世日本を漂泊跋扈した「異類異形(いるいいぎょう)」と呼ばれる「悪党」の一つであったようです。

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異類異形とは、本来、妖怪や鬼などをさす言葉でした。鎌倉時代後期以降は、覆面、蓬髪、派手な衣裳、柿色の衣、蓑笠や棒をもつ姿をした人間に対しても、異類異形と呼ぶようになりました(絵は『融通念仏縁起絵巻』(清涼寺本、15世紀)より、「異類異形」の人々)。

悪党とは、鎌倉時代後期以降に活発化した支配体系外部の戦闘的集団を指す言葉です。諸国を旅する芸能民や遊行(ゆぎょう)僧も悪党的性格をもつとされていました。つまり支配体系には属さず、派手な恰好をして諸国を放浪し、芸能や念仏によって糊口をしのぎ、必要なときには暴力に訴える戦闘的な集団だったのです。

異類異形という言葉も「人でなし」くらいの意味で、はじめのうちは悪口として使用されていました。南北朝時代(1336-92)にはその意味が逆転し、ポジティブな意味をもつようになっていきます。「婆娑羅(ばさら)」といわれる、身分秩序を無視した華美な服装や振る舞いを好む美意識のルーツは異類異業にあります。

その婆娑羅から、室町時代後期(16世紀)から江戸時代初期(17世紀)にかけての社会風潮であった「歌舞伎者(かぶきもの)」が産まれたといわれています。歌舞伎者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはぐなど常識を無視して非常に派手な服装を好みました。
それが「異風」であり、「風流(ふりゅう)」であったのです。

風流(ふりゅう)とは中世芸能の一つです。華やかな衣装や仮装を身につけて、囃(はや)し物の伴奏で群舞します。のちには、華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りをもいいます。民俗芸能の念仏踊り・雨乞い踊り・盆踊り・獅子舞などの源です。

ウチナーグチの「イフーナムン」という言葉は、「異風な者」という意味であり、それは異類異形に端を発し、歌舞伎者にいたるまでの、聖別された悪党をあらわす言葉だったのです。

歌舞伎者の風潮は17世紀後半、徳川幕府の統制を受けて封印されていきます。アンニャたちの沖縄への渡来が、柳田が指摘するように15世紀からであるとすると、彼らの携えてきた芸能は15世紀から17世紀前半にいたるまでの、日本の中世後期から近世前期の芸能であるとみることができます。それはまだ江戸趣味の「風流(ふうりゅう)」にまで洗練されていない荒々しい芸能でした。

5. エイサーの祖形である似せ念仏(若衆念仏)

エイサーの祖形は、アンニャたちがもたらした「似せ念仏」でした。「似せ」というのは「ニーセー」の当て字であり、ニーセーは若衆という意味です。つまり似せ念仏とは若衆念仏です。似せ念仏=若衆念仏とはどのような芸能だったのでしょうか。

琉球王国時代、似せ念仏は取り締まりの対象になっていたようです。次のような行政文書が残っています。ここに書かれている禁止事項から、似せ念仏の姿をある程度再現することができます。

似セ念仏仕候儀、七月十三日夜ヨリ同十六日夜迄御免。尤首里ハ各平等中、那覇久米村泊ハ村中、田舎ハ各間切中ニ而可仕候。喧嘩口論ハ不申及、支度之儀サジ帯迄モ絹布用申間敷候。蕉布木綿之類トテモ、絵書衣致着候儀、且又八月十五夜其外一向禁止申付候事。〈雍正11(1733)年〉
門立覆面手吹辻歌、或人ニ相係リ候雑歌、又ハ異風之躰ニ而道路徘徊間敷事。〈雍正11(1733)年〉
【似せ念仏は、七月十三日夜から同十六日夜まで許可する。それぞれの地域を越えてはならない。喧嘩口論はいうまでもなく、頭巾や帯も絹を使ってはならない。芭蕉布や木綿の衣類でも絵入りの派手な衣装は禁じる。八月十五夜やそのほかの「遊びの日」にはやってはならない。
覆面して門に立って、指笛や歌などを歌うこと、または〈異風之躰〉で道路を徘徊することなどはやってはならない。】
(「那覇横目条目」雍正11(1733)年『那覇市史資料篇 第1巻12 近世資料補遺・雑纂』2004年)
ア 似せ念仏之儀盆中又さじ帯に至る迄絹布不用様被仰渡候事。
イ 似せ念仏仕候儀、七月盆中は御免被仰付置候処、あぶしばらい其外之遊日に右の芸仕候儀、御禁止被仰渡候御書付之事。
ウ 盆中諸士百姓致混雑、覆面にて歌三味線仕、人家押入候儀に付、御禁止被仰渡候御書付之事。〈乾隆23、24(1758、59)年〉
【似せ念仏は盆の間、さじ(頭巾)とか帯にいたるまで絹のような贅沢な格好をしてはいけない。似せ念仏は七月の盆の間だけ許されている。アブシバレーとかそのほかの「遊びの日」にはやってはいけない。盆の期間、士族や百姓たちも入り混じって、覆面をして歌三味線をし、人の家に押し入るのは禁止されているのでやってはならない。】
(「親見世日記目録」乾隆23、24(1758、59)年、同前)

禁止事項から再現してみると、似せ念仏は、①お盆の期間だけではなく、アブシバレーや八月十五夜などほかの「遊びの日」にも行われていた、②居住地域を越境して行われていた、③喧嘩や口論が絶えなかった、④絹織物や絵柄の服など贅沢で派手な格好をして徘徊していた、⑤覆面をして指笛や歌三線をしながら人の家に押し入る、というようなものになります。

アブシバレー〔畔払い〕 田植えのあとに畔(あぜ)の草刈りを行い、虫払いをして、豊作を祈願する年中行事。旧暦4月14、15日の二日間か、四月中旬以降に吉日を選定しておこなう村が多い。(桃原茂夫『沖縄大百科事典』)

現在のエイサーのイメージとはだいぶ異なっています。覆面をして人の家に押し入るという点などは、どちらかというと八重山諸島の盆行事であるアンガマに近いような感じがします。


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