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道徳を知ることとすること


道徳の授業は常に退屈であった。今から思えばあの授業はかなり道徳を帰納的に補助してくれていたのだと思う。一方であの道徳の授業には意味がなかったとも思う。


最近倫理学にとりわけ興味をそそられている。というのも、大学に入学してからというのも否が応でも人間と触れ合う機会が増え、その機会が増せば増すごとに人を傷つけている、あるいは傷ついている状況に出くわすことになる。あのとき僕は一体どうすればよかったのか、どうすればだれも傷つくことなく過ごせたのか、あるいは傷つく”べき”だったのか。そんな悩みは尽きない。倫理学は、ある意味ではそんな自分の心のゆらつきに一定の支え棒を与えてくれるものである。ひとはどう行動するべきかについて教えてほしいのだ。僕は僕を正当化したいのだ。


実際、倫理を学ぶとはどういうことだろう。ここには僕の中で矛盾がある。こういう状況にはこのような行動を取らねばならない、という規範的なルール、を学ぶということではない。そんなことは人生の格言を出すインプレッション狙いのアカウントに任せておけばいいのである。ルールを知りたいのとルールを鵜呑みにするのは違う。倫理学においては僕の感じる限りでは、道徳とは何か、何をすべきかを演繹的になにかしらから導出しようとする試みだと思う。あんまり深く立ち入ると手に負えなくなるが、倫理学ではなにかしらの主義を立てて、ひととして(主義によっては理性だとか痛みを感じる主体として)なにをなす”べき”かを考える学問であると思う。なにを我々はしてはいけないのか、なにをすべきなのか、を追究するのである。この試みは僕にとって明らかに心の支えになる。なぜならば、人間関係についてなにか悩みがあったとき、自分の似非理論でなくその倫理学の一片を咀嚼することによって正当化されるからである。


言いたいのは少しずれて、その倫理学的な咀嚼から得られる正当化と、現実に僕が行動すべき(べきということばはあまり深く考えないでほしい)こととのずれである。倫理学やその他の規範から生じる”べき”という行動と、実際に僕が現実で行う行動には必ずズレがあって、そのズレ自体は正当化されるのかという自分の中での問題である。具体例を出そう。まず犯罪に触れることは功利主義的な観点から僕はしないから具体例から外すとして、もっと卑近な例、すなわち金銭的な話だ。友達に何円かを肩代わりしてもらうとする。おそらく道徳的命令では、ある範囲で早急にお金を返すべきである。なのに僕は返さない。なぜだろうか。例えば僕はだれかにうそをつくとする。その嘘は僕の悪態を正当化する嘘である。”本当”はそうすべきではない。でも僕は噓をつく。なぜだろう。


道徳命令と実際の行動にはやはり齟齬がある。カントを思い出してみよう。たとえば、これは倫理学の授業で知った話ではあるが、トリアージの概念である。トリアージとはつまり、命に優劣をつけることである。阪神淡路大震災では、現場で緊急治療にあたった医者は、命の選択に迫られたという。誤解を恐れずに言えば、助かりそうな命ほど優先して助けるというものである。戦場ではこれは普通であるけれど、実際民間人に対してトリアージが行われたのはまれである。カントによれば、これは道徳に反している。なぜならば、すべての傷つく人は助けなければならないからである。トリアージは倫理的に否定されるわけである。だが、その場の状況を鑑みるとして、果たして誰がトリアージをした医者を自信を100%もって批判することができるだろうか?少なくとも僕にはできない。トリアージには功利主義の影が見え隠れしているけれども、それでも正しいことをしたのだという主張を喝破することはできない。カントのその正しいという倫理的主張は、現場においては否定された。


これから、カントの主張が間違っているということではない。僕が言いたいのは、倫理学的主張と実際の行動はズレているということだ。ただトリアージを例に出すのはミスリードだったかもしれない。阪神淡路大震災での医者はそうせざるを得ないと感じたから、そうしたのだろう。僕とは違う。ただこの例が示唆するのは、倫理学的命令と現実の行動とのズレがあったときに、現実の行動が正当化はされないものの道徳的には否定されないことにある。しかしその時においても、倫理学的命令は否定されたわけではない。あるにはあるんだけれども、それが遵守されていないだけである。そして遵守されていないながらも、現実の行動が否定されもしないのだ。このニッチな状況について疑問を抱いているし、しかし僕は安住してもいる。というよりは、おそらく人間皆そうであろう。この隙間に安住している。この隙間をどう扱うか、そしてそれに安住している僕をどう扱うか、が当面の課題であるし、これが道徳を知ることとすることの隙間である。


僕の正当化については、未だにこの隙間に嵌っている。

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