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映画『兎たちの暴走』宇野維正さん(映画ジャーナリスト)寄稿「社会派作品の枠を突き破る鮮烈なイメージ喚起力」

映画『兎たちの暴走』で映画ジャーナリストの宇野維正さんに寄稿していただきました原稿をnoteに記載致します。

『社会派作品の枠を突き破る鮮烈なイメージ喚起力』

 韓国映画だと『ハチドリ』や『同じ下着を着るふたりの女』、日本映画だと『母性』や『わたしのお母さん』あたりが代表的な作品と言えるだろうか。近年、娘と母親の関係、それもいわゆる「毒親」と呼ばれるような精神的抑圧、場合によっては肉体的加害までをも子供に与える母親との関係、あるいはネグレクトを主要テーマとした作品が、東アジアの各国で同時多発的に作られている。それらは必ずしも女性監督による作品ばかりではないが、原作や脚本も含めればその語り手の主体はやはり女性であり、多くの場合、そこで母親は主人公にとって「乗り越えるべき存在」として描かれる。特に2010年代後半以降、第四波フェミニズム運動が盛んだった韓国では、最も身近な前世代の同性として「母親」が批判的な眼差しの対象となるのは必然でもあった。
 ところが、本作『兎たちの暴走』において母親は「乗り越えるべき存在」としてではなく、思春期を迎えた娘にとっての「憧れ」として描かれる。母チュー・ティンは「毒親」である以前にそもそも母親としての役割を放棄してきたのだが、家族にも学校にも居場所が見出せない娘シュイ・チンにとっては、そんな母が現代中国のあらゆるところに存在する社会的抑圧から「解放された」存在として映る。付け加えるなら、母が娘から見ても若々しく魅力的な容姿を保っていることも、本作においては重要なポイントとなっている。チュー・ティンに生活感がないのは、実際に生活の実態と呼べるようなものがないからなのだが、思春期の少女にとってありふれた生活こそが最も忌み嫌うべきものだというのは、古今東西共通の感性だろう。
 自分自身や周囲の無関心の表れだった垢抜けないロングヘアが、チュー・ティンの手によって見違えるように可愛らしいヘアスタイルへと変身していくシュイ・チン。ダンスを指導するためにクラスメイトの前に現れた美しいチュー・ティンの傍らで、誇らしげに微笑むシュイ・チン。チュー・ティンがハンドルを握るイエローのMG(英国を代表するスポーツカー・メーカーだったMGは2005年に中国資本に買収されてからは主に中国、タイ、インド向けの車を生産している)の後部座席から身を乗り出し、カーステレオから流れるユーフェイメンのポップソングに合わせて歌いながら、もしかしたらその短い人生で初めて「解放された」感覚を知るシュイ・チン。『兎たちの暴走』で胸を打つのは、そんな娘から母への一途な感情が表出するシーンの数々だ。
 一方、チュー・ティンの行動は常に場当たり的で、自分を頼りにするシュイ・チンに対しても、親としてというより、まるで歳の離れた姉、あるいは友達のようにしか接することができない。「姉妹のような母娘」や「友達親子」と言えば聞こえはいいが、結局のところ自分のことしか考えていないのだ。いや、金銭トラブルによって抜き差しならない状況に追い詰められているその様子からは、美しい容姿を武器にこれまでの人生をなんとか切り抜けてきたものの、もはや自分のことすらまともに考えることができなくなっていることが伺える。
 フェイバリット監督としてデヴィッド・フィンチャーとポン・ジュノの名前を挙げていることからも伺えるように、計算し尽くした構図や照明によって緻密な画を作り上げていくタイプの監督であるシェン・ユーは、そんな母と娘の心のすれ違い、そしてそのすれ違いが最終的にもたらすことになる顛末を、一編の残酷で切ない母娘の物語として提示する。その鮮烈なイメージ喚起力によって、本作は現代の中国地方都市を舞台にした社会派作品というだけでなく、固有の寓話性を帯びた作品にまで昇華されているのだ。
 現代の中国社会が抱える問題をより具体的かつ赤裸々に表しているのは、シュイ・チンのクラスメイト、ジン・シーやマー・ユエユエを取り巻く環境だ。中国の急激な経済発展に取り残されてしまった舞台となる四川省の工業都市のように、不仲の両親から愛情をかけられることなく、金銭面のサポートしか受けていないジン・シー。経済発展の波に乗るには不器用すぎた父親から過干渉を受ける一方、その恵まれた容姿によって子供のいない裕福な夫婦から里子の提案を受けているマー・ユエユエ。大人は誰もが利己的で、お金がすべてを支配していて、そんな社会から抜け出すためには容姿の美しさを利用するくらいしかないという閉塞感。ジン・シーとマー・ユエユエのサブストーリーは、チュー・ティンと
シュイ・チンのメインストーリーの背景にあるものを巧みに補強している。
 それにしても、現在40代半ばと少々遅咲きながら、そのストーリーテリングにおいても作品のルックにおいても、初の長編監督作でここまで洗練された作品をものにしてみせたシェン・ユーの才気には恐れ入る。本作を足がかりに、中国の映画界だけでなく、世界の映画界の最前線で活躍していくことを期待せずにはいられない。


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