鶏肉の生食
人間が南九州へ行く理由なんて、たった一つしかない。それは鶏肉を生で食べたいという生物として根源的な欲求である。
かつてウィンストン・チャーチルが述べた「その新鮮な鶏は卵よりも肉に意味がある(The fresh chicken is meaning with before eggs.)」という言葉により、本邦における鶏卵論争に決着を付けたことが広く知られている。
鶏肉の生食は禁忌であるが故に長年に亘る人類の悲願であった。
結局のところ、人類はいつまでも愚かな行為を繰り返し続けている。
鶏肉について安直にも加熱という手段を以て臨んでしまった。それは時にはザンギと呼ばれるものであったり、おやどり・ひなどりと言う名の料理として、熱に調味料を加えることで食文化としての体系を成熟させたのである。
だが、本当に加熱という手段は、正しいものであったのだろうか?
確かに鶏肉を加熱することで風味が変わり、相応においしいものになったということは私もまた否定するところではない。
しかし、その加熱調理を以て鶏肉を全てだと語ることもまた傲慢であり、狭窄した視野に自覚を持てないまま鶏料理を知ったつもりになるのは、カーネル・サンダースの掌中の上でブレイク・ダンスを決めただけで世界の覇者を気取る無謀な若者と等しい存在に過ぎない。
確かに生の鶏肉に潜むカン・ピ・ロバクターがもたらすリスクは計り知れない。公衆衛生と良識の名のもとに安易な生食を戒めることは、本邦が誇る健康保険制度の根幹を為す無意味な保険診療の抑制という意味からも必要なことではある。
こうした理性的な判断と、過去の知見から鶏肉の生食に対する忌避感は、戦後70年の歴史を通じて既成事実として市中に定着してしまった。それは即ち鶏肉の生食という行為に対する抑圧が、巨大な社会的同調圧力として作用したことと同義である。
この社会における公衆衛生を建付けとする鶏肉は火に通すべしという同調圧力の前に多くの日本国民が、加熱された鶏肉を重宝する世の中で、幾分か脱法的に鶏肉を生で食べれるのが南九州という地域であり、それは現代日本における希望が可視化された地域であることに他ならない。
私は先月、ラブライブ!スーパースター!! Liella! 5th LoveLive! ~Twinkle Triangle~ 福岡公演に両日現地参加するために北九州市を訪れた。2日間にまたがるコンサートを前から3列目トロッコ通路横で満喫したあとに向かった先は、トライアルである。コンサート後の高まるテンションで訪れたディスカウントストアは、魔境である。なぜなら舞い上がったテンションは判断力を鈍らせ、その値札に並ぶ数字をすべてが安いものと認識し、必要のないものを買いこんでしまうからだ。
案の定、資さんうどん でコラボメニューを食べたばかりだというのに、半額シールがついているというだけの理由でふぐやブリの刺身を買い込んでしまうのである。だが本当の狙いは魚ではない。はるばる南九州から直送されてきたであろう生食できる鶏肉のタタキである。
日曜夜、22時の北九州市。しかしトライアルの店頭に残っていたのは幾ばくかのローストビーフだけで、鶏肉のタタキの姿はなかった。
なんということか!
わざわざ前日にもトライアルを訪れ、販売位置と価格帯の下見すら済ませていたのに、あんまりの仕打ちだ。(万が一、当たってしまったときにDay2公演に参加できないというリスクを抑えるため下見に留めておいたのだ)
しかしここで素直に諦めてしまうような私ではない。
直ちに当該店舗に見切りを付けて市内にある他のトライアルや業務スーパーを回ったが、空振りを繰り返しようやく3店目で悲願の鶏肉のタタキに巡り合えたのである。
尤も、ここまで一番苦労したのは鶏肉を生で食いたいとごねる私のために、深夜のトライアル巡りドライブに付き合わされた友人である。(運転もしてもらった)
そしてディスカウントスーパーで買い漁った夕食を片手にホテルへ辿り着いたときは、そろそろ日付が変わろうかとするくらいの時間であった。
あれから2週間が経過した。
人の幸せとは手持ちの航空券の枚数により可視化される。
もう2月になったというのに、まだ今年の年間離陸回数はたったの2回だ。
これはよくない。コンプライアンス的にもよくない。
最近疲れも溜まっているし、ここは一つふらりと温泉にでも行って、日々の疲れを癒すとしよう。
かくしてどこかへ出かけようかとNHのとくたびマイルのページを覗くと、選択肢が色々と提示されていた。その中から稚内、函館、広島、鹿児島に候補を絞り込む。
稚内は1日1便で現地滞在時間が24時間程度なので早々に候補から消えた。函館はしばらくご無沙汰たのもあって本命のディスティネーションであったが、復路の最終便が既に完売していた。
すると広島に飛んで広電と向かい合うか、鹿児島に飛んで鹿児島市電と向き合うかの2択となる。
いずれも甲乙つけがたい行先ではあるが、ふとプライオリティパスをチェックすると鹿児島空港に新しいサービスが追加されていた。よし、これを試さない手はない。かくして鹿児島行きの航空券をポチ(CV:楡井希実)したのである。
翌朝、6時過ぎに羽田空港に辿り着く。
結局、始発便を取ってしまったために睡眠も不十分で、既に満身創痍である。
6時40分、定刻でNHは羽田空港を離陸した。
鹿児島空港には定刻からやや遅れて9時前の到着となった。
まずはバス乗り場の足湯へ直行し、10分程度を足を浸す。これで今回の旅行における唯一の温泉要素を回収した。
プライオリティパスで受けられる鹿児島空港のマッサージサービスを試し、市内へ。
とりあえず鹿児島市営の1日乗車券を入手し、あとはひたすら市電とバスで市内を行ったり来たりする。
昼食こそ、当地を代表する山形屋百貨店で名物のあんかけ焼きそばを食した他はストイックに鹿児島市電と向き合う時間を過ごして1日が終わる。
当地の日没は17:52。夕(た)ラッシュに借り出される旧型電車を追いかけているうちに日が暮れていた。
日頃の疲れを癒すとコンセプトの旅行ではあるが、終日動き通して充分に疲労が蓄積してしまった。
さて、せっかくの旅行であるので夕食くらいはしっかりといきたいところだ。そして私は意気揚々と当地を代表するホームセンター「ニシムタ」へと足を運んだ。
時刻は19時半。そろそろ値引きシールがついた総菜が私のことを待ち構えているに違いない。かつて鹿児島空港ターミナルビルがあった地は、今では値引き総菜が発着する地域の総菜ターミナルだ。
だが、現実は非情だ。
さしたるものが残っていないのである。
あまつさえ、私が求めていた生食できる鶏肉に至ってはたった一切れたりとも見つからない。
出鼻をくじかれるとはまさにこのことだ。
スーパーの総菜に狙いを絞りすぎた私には、もはや夕食のアテなど残っていない。
生活が苦しくて、外食や高価なコンビニ弁当なんて以ての外だ。
困窮した私は、恐る恐る手元の情報端末で付近のスーパーマーケットの情報を探ると、当地の一大チェーン タイヨー が比較的近傍にあることを突き止めた。
早々にニシムタに見切りをつけ、夜道を燦燦と照らすであろうタイヨーを求めて彷徨い歩くことになった。
数多くの観光客が訪れる鹿児島市でも随一のネットワークを展開する地場スーパーは、どちらかと観光客を強く意識した立地にも思える。
市営団地の1F、大きな通りから1本入ったところという観光客にもアクセスしやすい店舗に足を踏み入れると、入口に山積みになった九州産の野菜と果物が出迎えてくれた。なるほど、当地の食品で観光客を大歓迎というわけだ。
ミニトマト100円、スティックブロッコリー120円、あまおう398円と、お値段もなかなかの観光地価格だ。
だがあいにくと今日の目的は野菜果物ではない。
私は肉を、生で食べれる鶏肉を所望しているのだ。
精肉コーナーへ急ぐと確かにそこには鶏肉が山積みであった。
そのほとんどに「よく加熱してお召し上がりください」と注意書きがされている。違う、そんな加熱が必要な観光客向けの食べ物を探し求めているのではない。
血眼になって棚という棚を探し求めると、ついに辿り着いた。
鶏肉の刺身と、生食用の鶏肉の塊である。さらに塊には20%もの割引シールすらついている。
優勝である、悲願である。
戦前戦後を通じて最大の快挙である。
ついに私は1億2000万人の鹿児島県民の負託と期待に応えて、生で食べられる鶏肉を手に入れたのである。
そればかりか弁当に至っては全商品がレジで自動半額になるという。しかし弁当の前に、この団地に住む観光客らが立ちふさがる。地元の観光客との弁当争奪戦に果敢に突入するわれらが東村首指導者同志は、その比類なき困窮精神を発揮し、見事かしわ弁当を手中に収め、宿へと凱旋を決めたのだ。
もちろん弁当に合わせてデーリィ牛乳も忘れない。デザートはフランソワのスイーツといこもちを手堅く抑えて今夜のDinnerはいよいよ開幕する。
むしゃむしゃと、ただ静かに肉を生で食べる。
そのテンションの高まりは、いかなる言葉をもってしても言い表すことができないかもしれない。
火を通していない新鮮な生肉を生で食べるという新鮮な感覚は、生が持つ新鮮な味わいと生ならではの新鮮な感覚が混ざり合い、火を通した肉からは決して得られない新鮮な食感をもたらしてくれる。
しかしあまりにも不慣れな生肉食を続けていると、不意にこのまま肉を生で食べてしまってもいいものか素に帰ってしまう。
明日はきちんと動けるだろうか?
本当に今食べている肉は生食用だろうか?
そもそも鶏肉を生で食べてしまう行為はコンプライアンスとして楽しいのだろうか?
段々と不安感が増し、更には罪悪感にも包まれてくる。
ご家庭での調理を前提とした切り込みが入っていない巨大生食用鶏肉に手を付ける。
この生肉の塊に齧り付いた瞬間、私は人間としての叡智と知性と理性を捨てて、一介の野生動物として肉塊を貪り食べる動物になり果てたのだ。
そこに調理の概念はない。ただひたすらに生肉を食いたいという衝動だけで肉を食べている。
箸も使わず、デカい肉をまるでおにぎりを食べるかのように両手でしっかりと持ち、己の歯だけで嚙み切る。
大丈夫、私は野生動物。肉を生で食べることには慣れている。
故に肉を生で食べても平気なのだ。
鹿児島の夜は更けていく。
遠く桜島からボンと噴火する音が響くだけの、長閑で静かな夜だ。
ただただ無心で生肉を食べる。今回の旅程の最大に目的にして本懐を遂げつつあるが、心に去来する微かな不安と物理的な胃袋の満腹が持たらす幸福感が同居する複雑な感情に戸惑いながら豊かな夕食を終えるころには、惣菜の容器だけがゴミ箱に無数に突き刺さっていた。
今の私は鶏を生で食べるシラス台地のハイエナだ。空腹のままにスーパーの惣菜コーナーを襲い、クレカのポイント還元を確実に仕留める低所得貧困層の野生ハンターだ。
理性を失ったまま私は鶏肉にまぶす液体に染まった両手をじっと見た。まだイケる。理性を捨て、これからは一動物として生きていくのだ。
鹿児島は魔性の街だ。
鶏肉を生で食らう人間がそこら中に居を構えている。
聞くところによると しろくま なる郷土料理もあるらしい。
私には分かる。
それは熊を仕留めて生食する郷土料理のことだ。
日本にも、まだまだ知られざる文化や風習が根付いている。
偶には旅に出て、知らない地域の姿を見つけるというのも醍醐味なのだ。
生活が苦しい