白に染まる街、白に染まる僕。

1.
 例年になく強い寒波が日本列島を覆い尽くした夜。
空からは無限に舞い降りてくる雪は、都市機能もろとも風景を白く埋め尽くしていく。静謐と静寂、凍てつくような冷たい空気は物理的にも精神的にも全てを凍りつかせて、つかの間の休息をこの街にもたらすのだ。

 仕事の合間に覗いたネットニュースは、降りしきる雪の話題で占められていた。同僚たちは「電車が止まるといけないから」と言い残してどんどん先に帰っていく。日没からさほど時間が経たわけでもないのに、気づけばオフィスに残るのはもう自分だけだ。
 節電の掛け声を建前に暖房はもう1時間も前に強制的にシャットダウンされてしまい、ただの天井の飾りに成り下がった。そんなお題目で社会が変わる訳では無いが、それでも職場の経費は多少は下がる。下っ端の残業環境なんて削れるコストの最たるものだ。
結局、割りを食うのはいつも自分だ。
冷え切った職場の温度計を見ると、かろうじて二桁数字を維持するくらいか。確実に下がり続ける温度とモチベーションの二重奏に誘われ、程々で仕事を切り上げて社屋を出た。通りまでの路地裏で意識せずに漏れ出たため息は白く色づいて昇っていった。

 かろうじて電車はまだ動いているらしい。
数え切れない靴跡が踏み荒らした白い雪は、砂と混じり合った黒い水となる。まるで自分の心境のようだ。社会の汚れと混じり合った泥水のような存在。降っているうちは、雰囲気を引き立てる美しいものも、地べたに落ちてしまえばただの厄介者。
 きっと明日の朝は大きな混乱をこの街にもたらしてくれることだろう。
巻き込まれるのはまっぴらごめんだが、荒んだ心が社会の小さな混乱を期待している。
 そんな自分に少しだけ嫌な気持ちを覚えながら徐々に人通りから離れた住宅街へと足を早めた。

 辿り着いた先は白い外壁のワンルームアパート。財布の中の免許証に記された住所と同じ場所。
壁だけ見ればホワイトハウスと同じかもしれないが、その中身は安普請の軽量鉄骨構造だ。お陰様でお隣さんの生活音はよく聞こえてくる。
築年だけは浅いおかげで、見た目はそれなりに整っているが、虎の威を借るなんとやら。おまけに物件名も虎を冠した宮殿ともなれば、話が出来すぎているにも程がある。

 ドアノブに手をかけると、じんわりと冷気が伝わってくる。
肌寒さを感じていた退勤時のオフィスよりも確実に冷えている。もちろんレオなパレスに断熱効果なんて微塵も期待していない。このまま部屋の暖房をつけても、東側に嵌められたアルミサッシが室内を温める熱量の3割は持っていってくれるのだろう。

 天井に備え付けれたLEDの明かりが白々しいまでに人工的な光を放つ。
空調のリモコンも、照明のスイッチも、フローリングの床も、脱ぎ散らかされた寝巻きも、全てがキンキンに冷え切った世界は、この街に突如現れた北極なのかもしれない。
観測基地すら存在しない寒冷の極地。無機質な都市に住みながらも、無色に冷え切った孤独に包まれ、部屋の中ですら降り積もった雪で覆い尽くされたようなただ白い世界の真ん中に立ち尽くす。
 ああ、結局のところ自分という人間はどこまで行っても孤独なのだ。
ならばいっそ降りしきる雪によって何もかもが分断されてしまえばいい。

 この空間の唯一のメリットは、いい歳してニヒリズムに浸ったところで誰からも批判もされず冷笑されることがないことだ。孤独に酔いしれることが出来る自分に酔って、惨めな現実から目を背ける。
 そんな明るい将来なんて何も見えない日常の中でも、僕はしばらく生き続けなければならないのだ。
 
 ぼんやりと感傷に浸る自分を、唐突な便意が現実に呼び戻す。
それでも僕が人として生きている以上、身体の生理現象は生じるのだ。
催した異物を適正に処理すべく廊下の扉を開け、絶望した。

 あまりの冷え込みは、水を氷へと姿を変えてしまっていた。
つまり、こういう訳だ。
今は、流せない。
 程なくして大きな便意の波が押し寄せてくると、抗いきれない秩序と尊厳が決壊した。

2.
 なんだかんだ言っても外は寒い。
あたり一面は完全に雪景色、どうやら僕は北海道のどこかにいつの間にか旅していたのかもしれない。片手に下げたビニール袋の中には、決して衛生的ではない廃棄物が入っている。
なるべくなら人目につかないようにこっそりと処分したい。
幸いにも夜半の通りは人通りも少ない。しんしんと飽きることを知らない雪を踏みしめると、靴底で締められるような柔らかい圧着感があった。
 振り返ると自分がつけた足跡が街頭に照らし出されている。
さっきとの違いは、もはや泥水と混じることはない、純白の靴跡が続いていることだ。

 少し先の公園のゴミ箱でそっとビニール袋を手放す。
何食わぬ顔で、全てをなかったことにする。惨めな気持ちも、残念なエクスペリエンスも。きっと捨てたのは、先程まで履いていたパンツだけでなく、汚れきった自分の弱い心なのだ。

 振り返ると、公園の常夜灯に照らされてキラキラと光る雪原が広がっていた。そうだ、僕はもうさっきまでのネガティブな自分を捨てた。
この光り輝く雪の結晶は、街灯の光に照らし出されて僕を彩るイルミネーションなのだ。
 そしてこの結晶が織りなすページェントに照らされた将来への道は明るく僕を誘っている。何も恐れることはない。僕にはまだ出来ることがきっとあるはずだ。

 鬱屈した気持ちも何も全てを公園のゴミ箱に捨て去った僕の前に、さっきまで冷え込んでいたばかりの冷気も今はただ凛とした清々しい空気に変わっていた。
 眼の前が希望で開け放たれ、白い輝きみ満ち溢れた自分を、唐突な尿意が現実に呼び戻す。
 これからも僕が人として生きている以上、身体の生理現象は生じるのだ。
催した感情を適正に処理すべく社会の窓を開け放った。

 こんな大雪の住宅街の公園に人影はない。
煌々と照らしだされた灯りの下で、僕は何にも恥じない堂々たる人生を歩み始まるのだ。その第一歩に何もないただただ白い平原に向けて歴史的な一歩の痕跡を解き放つときが、まさに今なのだ。

 社会の窓より、文字通り人類社会へ飛び出した竿から、放物線を描いて歴史が振りまかれる。比喩ではなく、僕は人生における最大の自由と希望を実感している。
 全てが冷えついた世界の中心で握りしめた「竿」から、人の温もりと情熱の暑さが添えられた指先に伝わってきた。無限にも続くかに思えた瞬間も、時間にすればあっけないものだ。
しかし僕の思いに反してその終わりは、他者の介在によってもたらされた。

「お兄さん、こんなところで一体ナニを出してるの!
 とりあえずそれしまって!!!」
世間的にもよく知られた職業に定められた制服を着こなした二人組が僕に声をかけてきた。
だが何も恐れることはない。僕には輝かしい未来が待っている。
こんなところで、これからの希望を阻まれるようなことなどある訳がない。
「問答無用!! 射精(だ)せば分かる!!」

白い雪が舞い降りて、
吐く息も白く色づいて、
照らす灯りは白く輝いて、
街もみんな一面の白化粧に覆われて、
重力に抗うように白い液体が空を舞って、雪に溶けていった。

3.
 朝陽が昇る。
陽の光に照らされて、あれだけ街を白く彩っていた雪は昼過ぎには消えていってしまった。人々は何もなかったようにオフィスへ向かい、日常へと戻っていく。
 ただ一人、パンツも履かないまま公務員と対話を続ける僕を除いて。

 あの公園の雪もみんな溶けてしまった。
ただ数滴、やたらと白い液体の痕跡だけが照らされて干からびていた。

原作・主人公 笹松しいたけ

筆者注: これは実話であり、公式の記録、専門家の分析、関係者の証言を元に笹松しいたけの一人称視点の物語として構成しています。


生活が苦しい