のぞみ ナンバー・シックスティフォー(64Aのお話)

 今まで、幾度となく新幹線に乗ってきた。
新函館北斗も、金沢へも、もちろん博多南だって行ったことがある。
そればかりか外国の新幹線にも乗ってきた。しばらく前にソウルへ遊びに行くのに宿を200kmも離れた大邸市に取ったのは、当地にも高速鉄道が根付いているからに他ならない。

 さて、「今まで最も多く乗った新幹線はなんですか?」と尋ねられたら答えは決まっている。
「それは、のぞみ64号だ」

 もとより新幹線がない地域を故郷とする私にとって、新幹線とは遠く離れた世界の乗り物であり決して身近な存在ではなかった。初めて乗ったのは高校の修学旅行の時であるが、さすがにいわゆる新幹線に乗る練習まではやった記憶はない。
 それから数年たち、首都圏に居住するようになると途端に乗る頻度が上がってきた。私は効率を重視するオタクであるからして、旅行のコストを計算するうえで現地滞在時間が極めて重要な判断基準である。旅行先へはなるべく早く、旅行先からはなるべく遅く。そういう時間設定になるので自ずと始発・最終・夜行という手段を優先したくなるのは自然な感覚であろう。

 そんな私ではあるが、朝に弱いというファクターがあるため、本当の始発ではなくそこそこの早い7時台くらいの新幹線をチョイスすることが多いというダブルスタンダードな人生を送ってきた。だが、それで誰か困るわけではない。結局朝から乗る新幹線はかかる事情によりぶれるので、必然と固定化されるのは帰りの新幹線となる相場である。

 新大阪発21:24。
脳裏に刻まれたこの時間を私はこれからも忘れることはないだろう。
この列車を逃せば次の東京行きはあと3時間は来ないし、さらに東京駅の到着時間は7時間半ほど遅くなる。しかも新幹線より高い。故にこそ絶対に乗りたい列車としてのぞみ64号の価値が浮かんでくる。

 最終の東京行きというだけあって、車内はいつも混んでいる。
少しでも遅れが生じるとその先の首都圏各線の終電に間に合わないというリスクが生み出すどことなく張りつめヒリついた雰囲気と疲労した乗客達の顔だけが窓ガラスに映る漆黒の列車は、事情を抱えた厄介者ばかりが無限に乗り込みあうがゆえに混雑も集中しがちだ。決して楽しい行楽の最終コースにはお勧めできたもんじゃない。
 もちろん混雑シーズンには座席にすらありつけず、指定席の通路に立ちっぱなしの気まずい数時間の旅になることが保障されている。

 そんな数多く走る東海道新幹線の中でも一番空気が悪い列車、それがのぞみ64号ではあるが、気付いたら乗っているのもまたのぞみ64号なのだ。
 今まで乗った回数なんて数えきれない。ひかり限定の割引きっぷ以外で乗った上りの新幹線の半分はのぞみ64号なのは間違いない。

 それは東方紅楼夢の帰りにカート引きずりながら飲み会を限界ぎりぎりで抜け出して御堂筋線から走って乗り継いだのぞみ64号だったり、神戸のライブが終わり新大阪で降りる乗客の椅子取りゲームに勝利して新大阪で着席したのぞみ64号だったり、はたまたナゴヤドームの帰りに乗ったエクスプレス予約で空席を運よく仕留めたのぞみ64号なのだ。
 しばしば東京駅の終着が遅れるが、幸いにして列車ホテルで一夜を明かす羽目になったことはない。もっとも最後の乗り換え路線の最終は、無慈悲にも私を置いて出発してしまうことならあったくらいか。
 とは言えオタクとしては東京駅に停まる新幹線車両で一晩を明かす体験談の一つでも持っておく方が”ウケ”はいいのだが……。

 やがてコロナウィルスが世界に満ち溢れ、我々の生活も激変した。
そもそも西へと行く理由もなくなり、のぞみ64号へ乗ることもなくなった。
私がのぞみ64号に乗らなくなったときも、列車は新大阪を最後に出て、東京へと走っていた。

 人々の活動停滞は経済の縮小そのものであり、ほどなくして需要喚起の旗印の下で様々な施策がはじまった。
 私が久々にのぞみ64号に乗った時、一つだけ違いがあった。それは今までの定番の2・3号車ではなく、8・9・10号車に乗るようになったのだ。
そう、私は覚えてしまったのだ。それは時代の選択を行く選択であり、水色のシートがもたらす混沌に別れを告げ、茶色のシートに優雅に身を委ね少しでものぞみ64号の試練を緩和する試みであった。

 効果は絶大だ。
ただグリーン車に座っているだけで、普通車の旅客を無駄に見下す万能感に包まれる。静岡の小さな駅で待たせるこだま号に精神的なマウントを取れる。ここから産み出されるメンタルプライスは浜名湖で養殖される鰻よりも遥かに高い。深いリクライニングにフットレスト、充分なテーブルを活用する私はまさしく貴族階級の一員である。その手にしたおしぼりは、地位の象徴そのものであり、しばしばその場で使うのがもったいなくなってはつい持ち帰って自宅で栄光の余韻に浸ったりする。

 だがこれらは全て新大阪から東京へ向かうだけのたった2時間30分限りの魔法に過ぎない。列車が東京駅について魔法が解けた瞬間、私はそのあたりのモブと同じ非凡な表情に若干の疲れを重ねながら、北へと向かう京浜東北線の硬いベンチシートに大人しく座るだけの存在になる。それは無機質な大東京を彩る背景の一パーツに自らが戻っただけのことである。

 それからも幾度となくのぞみ64号に乗った。64号が取れないときは少しでも64号に近い時間を選択した。少しでも現地へ長く、そして少しでも帰りを快適にして想い出に水を差すことがないように。限られた中での工夫を凝らして、のぞみ64号に私はこれからも乗り続けるのだろう。

 さぁ次の大阪行きの予定が見えてきた。
私の手元には、関西国際空港発のANA100便の搭乗券がある。
現地の滞在時間と簡便なアクセス、時たま乗るグリーン車がもたらす優越感を足し合わせた言葉にならない価値と、プライオリティ・パスが誘うぼてぢゅう3,400円分食べ放題※の魅力と天秤にかけた結果、私はぼてぢゅうを選んだのである。

 のぞみ64号の想い出は尽きないが、何度乗っても避けられるなら避けていきたい列車なのだ。もう最終ののぞみなんて乗りたくない。

※筆者注}実際は食べ放題ではない。3,400円以上は課金が生じる。

生活が苦しい