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雨降りの道路のにおい、香水の彼女

午後になり、雨が降り始めた。梅雨入りしてからロクに降っていなかった雨は、このところその遅れを挽回するかのように、週間天気予報に傘マークを並べている。

雨の前、雨が降っているとき、雨上がりの空気のにおいが好きだ。湿っぽい水を含んだにおい。道路は洗い流されて、アスファルトから束の間香り立つそのにおいは、蔵や寺社のひんやりした空気や鍾乳洞のなかの空気に似ている。話は全然変わるけれど、鍾乳洞が好きだ。たぶん、冒険じみた場所が好きなのだと思う。……話を戻す。

においは記憶を閉じ込める。色に香りを感じる人がいるというけれど、わたしはにおいから記憶が呼び起こされる人だ。呼び起こされる感情から感傷が生まれ、わたしは容易くグラつく。わかりやすく不安定になる。

今はもう疎遠になってしまった、あの人と親しかったときの空気だとか。もう二度と戻れないあの日あの場所に揺蕩っていた空気だとか。においを防ぐ手立てはない。強制的に、わたしは過去に引きずられていく。

相手に自分を刻み付けておくために、香水を愛用しているという友人がいた。わたし自身は、ほぼ香水を使ったことがない。いつでもふんわりといい香りをさせている彼女の話を聞きながら、「ふうん」とわかったようなわからないような返事をした。

彼女が使っていた香水が何だったのか、わたしは知らない。その後、同じ香りに出会ったことも、(多分)ない。香水で相手に自分を刻み付けておくためには、その後も出会う可能性が高いメジャーな香水を選ばなければならないのではないのかな。まあ、わたしが出会っていないだけなのかもしれないけれど。

そんな凝ったことをされなくても、たとえば彼女と過ごした春先の少し甘いような光を含んだにおいを嗅ぐと、わたしは彼女を思い出せる。夜の街のきれいと汚いが混ざった埃っぽいにおいを嗅ぐと、あの日の彼を思い出す。そうして、胸がぎゅっとなる。ああ、もう二度とあの日のあの彼や彼女には会えないのだなあ。

雨が道路を叩きつけている音がする。部屋のなかにいれば、においに晒されることはない。車のテールランプが、アスファルトに溜まった水を跳ねる様子を想像する。そして、その車のなかのにおいを想像する。雨の日の車のなかの空気は、やっぱりわたしを感傷へと引きずっていく。


今回のお題:【道】【香水】

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