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無自覚の傲慢さと、逃れたくなる弱さと

そこそこがんばれる子どもだった。割と前向きに、いろいろなことにとりあえず取り組んでみることができる子どもだった。その結果、小学校時代にはちまちまと表彰される機会に恵まれた。

そんなわたしに、周りは「頭いいもんなあ」と言った。小学生時代は、その言葉を褒め言葉として単純に捉えていた気もする。やっぱり結果が形になると嬉しいし、誇らしい気持ちもあった。

中学時代、高校受験を前にして、やっぱり「ええよなあ、若菜は賢いもんなあ」と言われることが多々あった。何を言ってんだ、と思った。

当時のわたしはまったくもって成績優良者ではなく、“優等生”はただのイメージにしか過ぎなかった。むしろ中3を前に中1の内容から数学と英語をやり直さなければならない体たらくだったのだ。

半端に真面目だったから、定期テストだけはそこそこの点数でクリアして、なのにまったく知識として積み重なってはいなかったのが原因だ。だから、幸い内申点だけはそこそこあったのだけれど。ただ、実態とのギャップに対し、割と教育熱心だった両親のほうが強い危機感を抱いていた。


文字通り、人生で1番勉強したのがこの時期で、それはたまたま身の丈以上の学力を要する高校に行きたくなってしまったからでもある。だから、「めちゃくちゃ勉強している」自負があった。そんな裏事情を知らない同級生は、昔からのイメージで「賢いからいいね」と言う。ふざけんな。家計の事情で塾に行けない分、めちゃくちゃがんばってるんだぞ。内心、そう思うこともあった。

まだ受験が遠かった中1、2の頃、「塾でやった内容だから〜」と授業中にわざわざ言い、授業の邪魔をしていた子がいた。だから余計に、「塾も行かずに勉強できるっていいね」と言われるのにイライラしたのかもしれない。「同じくらい勉強してから言えよ」と思ったこともある。

ただ、わたしには母がいた。家庭教師の経験があり、教職を目指していた母。塾に行かせられない分、英語と数学は見るといい、パートの合間を縫って勉強し直し、教えてくれた母だ。なんてことはない、わたしの努力の裏には、努力し得る環境、努力を支えてくれる環境があったのだ。

中学時代から思春期も相まって不安定になったメンタルは、その後高校、大学とどんどん悪くなっていった。高校時代は希死念慮にどっぷりで、表面上はへらへらしていることも多かったけれど、家では大体ポンコツだった。

未来のことなんて考えたくないし、考えられない。勉強にもなかなか身が入らない。だって死にたいんだもの。だけど、時間は待ってくれない。わたしは“怠惰な高校生”だった。

“それなり”にはがんばっていたけれど、所詮それなりだ。今がんばらなくていつがんばるのかといった雰囲気が学校と家庭に漂うなか、巣食う希死念慮を誤魔化しながら勉強し、何とか大学に入った。結局、メンタルがガラガラと崩れてしまい、通いきれなかったのだけれど。

昨年、東大入学式の祝辞のなかで語られた「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」の言葉は、大いに話題になり賛否を呼んだ。メディアで取り上げられているのを見ながら、「努力もせずに人のことを好き勝手言うなとは思うけれど、そこには傲慢な側面があるのかもしれない」と感じていた。

わたしたちは……いや、“わたし”は、時に自分の常識や当たり前をもってして、“そうではない”人を怠惰だとか努力不足だとか自業自得だとかジャッジしてしまうことがある。

だって、わたしはこんなにがんばってきたんだから。同じ努力もしてないくせに、自分の努力のなさを棚に上げて好き勝手言わないでよ。そうした思いが湧き起こるからだ。

今だって好き勝手だと感じる発言には、やっぱり思う。「やってから言えよ」と。そして、逆に自分に対しても思う。「やれないのはただの言い訳だろ」と。

でも、人は一人ひとり違う。当たり前だけれども。得意不得意も、育まれた土壌も違う。そして、この土壌は多くの場合で、本人の意思ではないところで作られてきたものだ。

もちろん、最初から持って生まれたものの違いもあるけれど、どんな肥料が揃っていて、どの程度耕される機会があったのかは、それこそ親や出会った先生によるところが大きいのではないかと思う。

そういう意味では、わたしはきっと恵まれている方だったのだ。こと、勉強に関して。だって、たとえば、わたしはわたしの子どもたちに、わたしの母ほど勉強面でのサポートはできていないのだ。したい気持ちだけはあれど、子どもたちは子ども時代のわたしではない。わたしもまた母とは異なる。“教える・教わる”相性が、わたしと子どもの場合はどうやら良くないようにも思える。さらに、そもそもわたしは母よりも仕事に時間を割く道を歩んでいる。

自分ができることはもちろん、努力できることすら、実は当たり前ではないケースがある。そのことを、とりあえず頭のどこかにしまっておかないと、わたしは簡単に傲慢になってしまう気がする。「え、そんなのがんばればいいだけでしょ?」の言葉を絶対の信条にしてしまうと、がんばれない誰かだけではなく、がんばれないときの自分をも殺してしまうかもしれない。

……のだけれども、また別のわたしは、「いやいや、でもそれって言葉を尽くしたただの言い訳じゃん」と言うのだ。そんなわたしに対し、「でも」とか「だって」だとか理由を説明しようとする自分もまた、内にいる。カッコ悪いなあ。

マンガ表現で見かけた自分の中の天使と悪魔のように、正論を叩きつける傲慢な自分と、それに耐えられず逃げようと右往左往する自分とが、もうずっとせめぎあっている。

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