一寸の虫にも五分の魂。
小さな蜘蛛が目の前に現れた。
一瞬ギョッとするが視線を外し、蜘蛛が目指す場所に移動するまでそっとしておく。
小さな頃、虫がいれば大騒ぎしながらバンっとその虫を叩き潰し、嬉々として『やった!』とガッツポーズなんかして周りに報告していた。
そんなある日、小さな蜘蛛が出てきたのを見て、いつものように叩き潰そうと構えたとき、祖母の厳しい声がした。
『一寸の虫にも五分の魂があるゆーてな。命あるものはむやみに殺生したらあかんねんやで。』
意味はわからなかったが、おばあちゃんが怒ることは滅多になかったから、あかんことをしててんなってことは理解できた。
大人になり、この祖母が言った
『一寸の虫にも五分の魂』の意味を本当に噛み締める出来事があったのは、社会人になって間もなくの頃である。
初めて配属された部署は、総務課だった。
役員の来客にお茶を出したり、ときには役員のズボンにアイロンをあてさせられたりする、要はお偉方とされる人たちのお世話係というか雑用係である。
ある日の夕方、唐突にこんなことを頼まれた。
『ちょっと!これ役員に配っといてくれる?』
各社の新聞が大量にあった。
『これ何部ずつ配るんですか?』
『いーから!早くデスクに置いていって!会議終わったら役員がすぐ読みはるから急いで!』
そのオヤジはこちらの質問には答えず、早く早くと急かしたので、こちらも焦り、大量の新聞から2.3部ずつ違う新聞を組み合わせて準備し、役員のデスクに置いて回った。
しばらくすると専務がやってきて、
『ワシの読むのは日経と毎日‼︎』とおっしゃる。
次は取締役がやってきて、
『オイ!なんで朝日がきてるねん!日経流通と読売はどこや⁉︎』と喚く。
焦る私を見ながらおもむろに現れたのはただ新聞をデスクに配れという指示しか出さなかった先ほどのオヤジである。
『申し訳ありません‼︎新人が勝手知らずでして…。失礼致しました!オイ!ちゃんと確認もせんと何やってるねん‼︎』
不機嫌なお偉方の前でこちらに怒声を浴びせかけたのであった。
くっそー‼︎やられた‼︎
そう。新人いびりを50近くなったそのオヤジはやらかしたというわけであった。
『今後はわたくしがキチンと教育してまいります!』などと芝居ががったへりくだり方で深々と頭を下げ、
『君も新人教育大変やねぇ。頑張ってくれたまえ!』というお偉方からの労いの言葉をかけてもらい、ほくそ笑むオヤジの卑しい顔。
それを見た瞬間、頭をよぎったのは祖母の言葉であった。
一寸の虫にも五分の魂。
『くっそ!このオヤジもくっそ!このお偉方もくっそ‼︎今に見とけ!絶対負けへんから‼︎』
この悔しさと屈辱は忘れてはならないと、今しがた怒っていた役員の方々の部屋を一人ずつ回り、頭を下げ、聞いて回ったのだ。
貴方さまはどの新聞をお読みになられているのですか?と。
10人の役員の好みの新聞をメモし、帰りの通勤電車の中でその日のうちに全て暗記した。
勉強は嫌いだったが、成らぬことをぬかすあのオヤジを見返してやるんや!という一寸の虫の、ど根性魂である。
翌日何食わぬ顔で出社し、メモを見ず、トランプを配るように、一人一人の希望する新聞をセットし、役員のデスクに配った。
『あんた、やるやないの!もうちゃっと覚えてからに!おおきに‼︎』
昨日怒っていた専務がやって来て礼を言ってくれたのだった。
苦虫を噛んだような顔でこちらを睨んでいたのは、教育係という名の、いびりオヤジ。
一寸の虫にも五分の魂って知ってる?
心の中でオヤジに向かって舌を出したことを知っているのは、最下層の新入社員である自分自身、たった一人だけであった。
一寸の虫にも五分の魂。
小さなものとして人の心を舐めていては、投げ飛ばされる危険は誰にでもあるのだ。
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