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すっぱい葡萄。

高校生になってから成績が振るわないドカ弁。

ほんまどないするねん!という有り様であるが、本人は新しく始まった高校生活が楽しくて仕方ない様子で、勉強については現実逃避しているとしか思えない。

「ま、なんとかなるわ!」が、
「ちょっとどうにもならへんわ・・・。」になるのも時間の問題のような。

先日行われた中間テストの結果が次々に返ってくるのであるが、それぞれえらいこっちゃな点数ばかり。

一瞬猛烈な落ち込みぶりを表すものの、三歩歩けば忘れる鳥のようなドカ弁。

ごはんを食べて風呂に入れば大声で歌い、風呂から上がればIphone片手におやつタイムである。

唯一自信たっぷりだった化学のテストが87点という結果だったが、平均点はなんと80点という恐ろしく頭の良い子たちが真面目に勉強している様子がうかがえる。

するとこんなことを言い出すではないか。

「みんな塾で先にやったとこばっかりやから学校の授業なんか聴かんでもいいんやってさ!」

自分はやるべきこともさりとてやらず、お尻を掻きながら寝転がっているくせに、結果を出している人たちを褒められないし認められない、負け惜しみのマイナス発言の登場である。

「あんたさ、イソップの”すっぱい葡萄”やん。」

そういうと、は?などど不貞腐れた顔で聴き返してくるドカ弁。

「狐がさ、ぶどうの木に美味しそうなぶどうがなってるの見つけるねん。美味しそうやな!食べたいなー!って思うんやけどぶどうが髙いとこになってて取られへんわけよ。」

「だから?」

「美味しそうなぶどうをほんまはめっちゃ食べたいねんけど、自分は手が届かへんからぶどう食べられへんねん、狐は。」

「ふーん。」

「それが哀しくて悔しくて狐が言った言葉ってのがさ、”どうせあんなぶどうすっぱくてマズイに決まってるわ!”とかって言うねん。」

「・・・・・。」

沈黙したところをみると、何を自分に言いたいか、自分がなぜすっぱい葡萄だと親に言われたかをなんとなく悟ったようであった。

旨そうな葡萄を見ても、それが自分の手に届きそうにないと感じることはこれから先もたくさんあるにちがいない。

上には上がいるのが現実なのだ。

顔、スタイル、性格、勉強、スポーツにはじまり、個人の能力、人徳、出世、恋愛、結婚、子育てと時を重ね、老後になったとしても、自分以外の誰かのことを気にしながら人は生きていく。

しかし、人と自分を比較し、自信のなさから『どうせこのぶどうはすっぱくてマズイんや!』という考え方をするのは一瞬は救われた気になるが、長い目で見たら結局自分を消耗するだけである。

「あんなぶどう、どうせすっぱくてマズイに決まってるわ!」と負け惜しみを言わずにはいられない大人なることは、比較的ラクで簡単な道かもしれない。

美味しそうな葡萄を手にしている人を見た時、なぜこの人は美味しいぶどうを食べることが出来ているのかと考えることの方が実はとても難しく、しかし大切なことのように思う。

それはドカ弁の心の持ち方しだいなのだ。

美味しい葡萄を目の前にしながら、「どうせあんな葡萄はすっぱくてマズイのさ!」などど強がっていても、お腹は減るばかりである。

お腹が減ったらもっとイライラするのは当たり前なのだから、満腹感を得るための一番の近道は、美味しい葡萄を食べたいならその方法を考えよう!解らなければ誰かに教えてもらおう!という素直な姿勢なんじゃないだろうか。

どうせすっぱいんだ!と嘘ぶきながら、できない自分を納得させる理由を探していても埒はあかないのだ。

美味しい葡萄を食べたいなら自分が努力するしかない。

頑張れ、ドカ弁!


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