⑦うし
自分の父は曳船の船長をしていた海の男である。
子どもの頃の父は、長距離航路で仕事をしていたため、帰宅するのは月に1度くらいだった。
たまに帰ってくると、各港のお土産物を買ってきてくれるのが楽しみだった。
羽子板、三味線、チョコレート。さまざまな土地のものを持ち帰り、自分と妹に手渡してくれるのだった。
しかし妹は「知らんおっちゃんがきた!」と毎回大泣きしていたのを覚えている。
たまにしか見ない男の人は、「知らんおっちゃん」扱いだったわけだ。
我が子に知らんおっちゃん扱いされることに、これはアカンと感じたようで、自分が小学校2年生の時、長距離航路の仕事を辞め近場の職場に変わったのだった。
毎日お父さんが帰ってくる生活が新鮮だった。
だって友達のお父さんたちは皆、夕方には帰ってきて、休みの日には家族そろってお出掛けしたりするのだ。
父が不在がちだったころは、本当に母子家庭のような状態であったから、家族が全員揃って食事をするという習慣もなく、なんだか物寂しかったから、とても嬉しかったのを覚えている。
「お父さん」という人をあまり知らずにその時期まできていたから、父のことがあまりよくわかっていなかった。
船長さんをしているんや!ということだけは分かっていたが、どんな性格なのかとかキャラクターがつかめていなかったという感じであった。
しかし、父は想像以上にオモロイおっちゃんで、とにかくノリが軽い人であった。
友達が電話をかけてよこすと、受話器に向かって「ハロー!」などと平気でいうおっちゃんで、自分の友達には結構人気があった。
そんな父の新しい職場には、幼馴染の西田さんというおっちゃんが機関長として、父の相棒として、一緒に働いていた。
同郷ということもあり、親しくしていたのはいいが、この西田さんと父はかなりの遊び人で、ややこしいかぎりの遊びをしていたようである。
大人になってから聞いた話であるが、船乗りという職業は、港から港へオンナと博打がつきものだということであった。
船に乗っている時は”海の男”としてクールに映るが、上陸した途端、”丘の男”に成り下がり、やりたい放題のあかん感じになるのが習わしのようである。
そんな悪友であり、親友だった西田さんが交通事故に遭い、あっけなくこの世を去ったときは相当落ち込んでいたのを覚えている。
ある時何を思ったか父が突然、西田さんとの思い出話をしてくれたことがあった。
大昔の若い頃の話。
西田さんと父は博打に明け暮れていたことがあったそうである。
二人で大負けしてしまい、すってんてんになってしまったので、諦めて帰ろうと父が西田さんに言ったところ、西田さんはこう言ったそうだ。
「大丈夫や!手はある!!」
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