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⑰アート書道に憧れて

バラをくわえて踊っているのではない。

自分の書の持ち味は「情熱的な勢いある運筆」である。

以前も夕刊UNIで書いたと思うが、自分の作品は「やるんかゴラぁ!」的な要素が隠しきれない隠し味として、どうしても前面に顔を出してしまうのである。

noteをはじめた頃は、やはり書家として本の表紙を書きたいとか、オサレ系リビング雑誌に取り扱われるようなアート書道なるものにも挑戦し、あわよくば書の担当としてオファーが来ないか?などと色々妄想してみたのである。

しかし、実際問題としてどれだけ妄想しようとも書くのはこの自分自身であるから、オサレなアート書道を目指しても、どうにもこうにも筆が言うことを聞きやしないのである。

「あんたな、そんなシュッとしたキャラちゃうやろ!」

いつものごとく、筆がツッコミを入れてくるのだ。

筆の精は、自分が書のスタイルに悩むたびに毎度こうして現れ、オサレなスッとした線を書こうとする手を遮り、腕を引っ張るように荒波のような線に仕上げていこうとするのだ。

筆が意志を持って動きを止めないから、常に波しぶきがドッパーンと打ちあがるような荒々しい筆さばきになり、真っ白な壁にスーッとした繊細な線が走るようなアート書道にはなかなかたどり着けないのである。

「あんたな、自分の原点からぶれたらあかんよ!」

いつもどこかでこう言われているような気がしている。

そういえば、どっかで似たようなことを言われていたと考える。

師匠である。

「なんや!そのひょろひょろ~っとした線は!きちっとはらう!止めが甘い!筆が寝てもとる!筆を起こせ!」

そうである。これがこびりつき、"THE SYODO"の心意気が消えることが無いのだと思う。

古典落語のようなもの、そんな感じがしっくりくるのかもしれない。

現在こうしてnoteで書を販売していることは、古典落語が時代に合わせて表現を変えても、お話の軸はぶれないのと同じようなものなのかもしれない。

師匠が生きていたら、インターネットで弟子が書を販売しているなんて聞いたら腰を抜かすだろう。

しかし、時は流れ続けているのである。
時代に即した形に日本の書道も変化していることを師匠に報告したいものだ。

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