『無』であること。
般若心経は子どもの頃から馴染み深いお経である。誰に言われるまでもなく、自ら進んで唱えていた。
菩提寺から貰ったオレンジ色の経本の一番初めのページに載っているのが、般若心経だった。
漢字がぎゅうぎゅう詰めに書かれていたが、横に平仮名で読みが入っていたので、大寺さんが法要で読んでいる節回しを見よう見まねというのか、聴きよう聴きまねで唱えるのが好きだったのだ。
『uniは般若心経上手に唱えるなぁ。さすが長女やなぁ。』
『子どもやのにこんな上手にお経唱える子は珍しい。ご先祖さまも喜んではるわぁ。』
周りの大人たちが口々に褒めてくれるので、嬉しくて得意げになっていた私。
そのせいか、5、6歳だったにもかかわらず、般若心経をほとんど暗記していたのだった。
そんなふうに小さな私を褒めてくれていた人たちは今はもういない。
先日伯母の法要があり、なんやかんやと生きている者たちがいがみ合ったり傷ついたりしたことが、私の心に小さなわだかまりとなり、綺麗な秋の空なんか見ていると、なんとも心もとない気持ちになり、このやるせなさをどう扱ってよいのか自問自答していた。
そんな時、ちゃっかりが言ったのだ。
『ママ、般若心経書いてよ。』
その何気ないちゃっかりのひと言が、何が何やらな気持ちをシャンとさせ、わぁーっと何かが吹っ切れた。
心で般若心経を唱えながら書いていると、集中力がどんどん研ぎ澄まされるような感覚を覚えた。
濃厚な時間の流れを感じながら夢中で筆を運んでいく。畳ほどの大きな全紙に中腰で這いつくばりながら。
一枚の全紙が埋まる頃、ようやく我に返って腰を下ろした。
時計を見てみる。
約2時間の時間が過ぎていた。
全身の筋肉が痛み、物凄い汗をかいていた。
般若心経をこんなふうに夢中で書く日がやってくるなど考えたことはなかった。
『無』と『空』を繰り返し唱えること。自らの拘りや価値観も全ては『空』であり、それら『空』さえも『無』だとお釈迦様は説いておられる。
自分自身でさえも『空』なのだとすれば、この苦しみ、怒り、哀しみも『無』であるということ。
移り変わる事象の中の一つとして、長い苦しみはいずれ消えゆくものなのだということである。
『あぁ、なんて小さなことで。』
そんなふうに180度違う感情を呼び覚ました般若心経。
移り変わることを哀しみや怒りや嘆きで埋めつくすことは自らの苦を増やす。
『私は私の道をただひたすら自分の歩幅で歩めばよいのだ。』
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