ドカ弁の袋とじ。
『すごい!ドカ弁の袋とじ写真が出てきた〜!』
朝から要らなくなった大量の本の整理をしていたスナフキンが、本の間から見つけた一枚の写真を手にドタバタ走ってきて興奮している。
差し出された写真を見てみると、まぁ、なんと懐かしい!若かりし日のドカ弁のヌード写真である。
お風呂上がりには素早くバスタオルで身体を拭き、あせもが出ないようにテンカフを叩き、今頃の季節ならサッカー生地のサラリとした甚平やパジャマを着せていたものである。
『ドカ弁!ちょっと!これ見てみ‼︎』
明日からテストを控えたドカ弁を呼びつけ、ホレホレと懐かしい写真を見せる私とスナフキン。
『ちょっ!なに‼︎すごい格好やけど、絶妙な具合であかん部分は隠されたこのヌード‼︎ウチって赤ちゃんの頃はモデルの才能あったんちゃうん‼︎』
ノリだけはいいので、アホな回答をバシッと決めてくれるのは流石である。
この時期からもはや15年以上の時が流れていることが信じられないが、目の前でスナフキンと爆笑しているドカ弁を見ていると、現実なんだなぁとしみじみした気持ちになる。
この頃の育児日記を見てみると、
『生まれてきてくれてありがとう。』
『夜泣きばっかり。ひやきおーがんの金の粒を飲ませてみよう。』
『賢くなくてもいい!元気に育ってくれれば。』
などと、欲のない新米ママならではの言葉や、夜泣きする我が子に2時間おきに起こされ、思うように眠れない愚痴なんかがつらつらと書かれていて、当時は本当に育児に必死だった様子がわかる。
『歩きゃ歩かん子ができ。』
祖母や母からよくこの言葉を聞いていた。
子が一つ成長すれば、次にはまた別の形での子育ての苦が待ち構えていることを表す言葉だったそうだ。
泣くだけだった赤ん坊の頃は、
『この子はどんな声をしているんだろう。声を聞くまでは絶対死にたくない!』
などとまだ聞かぬ我が子の声音を待ちわびた。
喋るようになると、一日中ペチャクチャ喋り続け、相手をしてやらないと癇癪を起こすという現実を知った。
ハイハイし、たっちし、つかまり立ちができるようになる。すると次は
『歩いて走る姿を見るまでは死にたくない!』
あんよが出来る日を今か今かと待ちわびた。
実際歩けるようになると今度は油断すると目の前から姿を消し、一人で何処でも興味のあるものに向かっていくという特徴を理解し、心配事がまた一つ増えた。
そしてもうすぐ16歳を迎えるドカ弁には進みたい道を歩いて行ってほしい、好きな仕事をして、好きな人と恋をして、いつかはかわいい子どもにも恵まれてほしいなどと期待しているわけである。
好きな道を見つけられず腐っているやもしれず、好きな仕事に就けていないかもしれない。恋をしても夢が破れている時もあるだろうし、子どもに恵まれず苦しんでいるのかもしれない。
しかし、期待や夢が破れていたとしても、私はドカ弁やちゃっかりの面倒を見るのは嫌だとは思わず、年老いてはいても彼女たちの幸せを祈り、心を砕くのだろう。
さぁ、今日の晩御飯は。
アッサリしたものでいいか。
キッチンに立つと今夜の夕食は何かと尋ねるドカ弁がやってきた。
『えーっ!晩御飯そうめん⁉︎ウチお昼ごはんもきつねうどんやったし‼︎麺ばっかりかよ‼︎』
かーっ‼︎
有難くないこのドカ弁が‼︎
ドカ弁の袋とじ写真はこちらから。
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