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兵庫県香美町余部橋梁にみる先人の絶え間ない努力

兵庫県美方郡香美町(みかたぐんみほちょう)にある「余部橋梁(あまるべきょうりょう)」、鉄道ファンの聖地だ。

百数十年前まで、日本海側で京都-兵庫-鳥取と移動するためには、航路を乗り継ぐしかなかった。しかし、この余部周辺地域は、山が海に迫る地形で海岸沿いに線路を通すことは不可能。そこで、いくつかの山の上部にトンネルを掘るとともに、山と山の間の深い谷間に橋梁が作られることになった。最初の真っ赤な橋梁(写真2つ目、3つ目)は、今から110年前の1912年に完成。これにより、船舶乗り継ぎで京都-出雲今市間は24時間かかっていたところ、開通後は直通列車で13時間に短縮されたという。

しかし、当時、ここ「あまるべ」には橋梁はあっても駅はなく、「陸の孤島」となっていた。地域住民は、子どもたちも含め、暑い日も雪の日も、命がけで列車の合間を縫って4つのトンネルを抜けて2km先の駅まで線路を歩いて向かわざるを得なかった。そこで、住民は、国鉄や知事に要望を重ね、橋梁が出来て約半世紀後の1959年、階段で40m登った橋梁の上に「あまるべ駅」がつくられる。駅までの道とプラットホームを造る材料とするため、地元の子どもたちも海岸から石を運び上げる作業を手伝った。

1986年日本海からの突風にあおられ、回送列車の客車が橋梁より転落。橋梁の下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場の従業員と乗務員6名が死亡、6名が重傷を負った。その後の安全規制の強化から、2010年現在のコンクリート製の橋梁(写真1つ目)に、40mもの階段は、エレベーターに代わった。これで、子どもたちは、毎日40mもの階段を登る必要はなくなる。子どもたちが、通学の不便性から解放されるまで約100年を要した。

各地を周ると、村に電車や国道を通すことが、当時の地域の人々にとって、どれだけの悲願だったかを知る機会が多い。現在、当たり前のように思える光景が、当たり前などではないことを教えてくれる。もちろん、電車や国道だけではなく、一人ひとりが平和に生きている光景も、当たり前などではない。すべては先人の絶え間ない努力の上に、私たちは生きている。

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