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「せつなときずな」 第18話


日曜日の朝、刹那はドレッサーの前に座っていた。
サキは久しぶりに、刹那にメイクをしている。
これが最後だと、刹那はサキにお願いした。

「刹那は」サキはアイラインを引きながら、刹那に初めて感情を聞いてきた「林君だっけ、好きなの?」

刹那は答えなかったが、サキはそれで十分と思ったのかもしれない。
「まさか、39で孫を抱く日が来るなんてね」

「いやだった?」

「いやではないけど、まあまあ驚きよね。
私も、刹那も」

サキは娘に忖度するつもりはまるでなく、手を止めることなく続ける。
「刹那、これからあんたは、クラスでハイエナの群れに投げ込まれた子羊になる。
どれだけ隠したところで、父親が誰かは、すでにみんなが知ってるのよ。
覚悟はいいわね?」

刹那はサキの言葉に、決意を新たにした。
しかしきっと、闘うのは他の誰かではなく、不安と弱気に苛まれる裡なる自分自身なのだろう。
今日のこの日にサキにメイクを頼んで良かったと思う。
今日はきっと、人生で忘れ難い記憶を伴う境界線になる。
それがどんな日になろうと、これからは自分で決断し、自分で行動しなくてはならない。
心に花ではなく、サキの手を経て彩られることで纏う決意なのだ。

仕上がった刹那の顔に横並びでドレッサーをのぞきながら、サキは言った。
「今日ぐらい、男を泣かす女になっておいで」

いかした台詞だと、刹那は思った。

営業日なので早起きして刹那の願いを叶えると、サキは仕事に向かった。
林は、初めて二人が待ち合わせたレンタルショップで落ち合おうと刹那に伝えてきた。
「白猫」に行くのは、林と関係を持ってから初めてかもしれない。
独りだった私は、独りでなくなった時を境に、独り占めしていた時間を男との逢瀬に費やしたのだ。

公彦は、一晩の時間に何を考え、何を決断するのだろうか。
私は、どんな決意なら安堵するのか?
どんな仕打ちなら、堪えられるのだろか?
そもそも、私は何を望んでいるのだろうか…

何度も重ねた肌や、汗が交わるあの感触は、それは後悔したくはなかった。
それでも、私は自分がそれほど好きにはなれない名前そのままに、刹那的な何かに溺れた。
公彦は、私を好きだと言った。
行為の最中、何度も私の名前を呼んだ。

刹那的な何かは、きっとその声の木霊だ。
私は人から好きと思われて、好きと言われて、そして体をゆるした。

ゆるしたんじゃない。欲したんだ。

確かめるために…

晴れてはいたが、風が強いのでサキの黒いスプリングコートを羽織ったものの、さすがにヒールの高い靴は避けたかったので、似合うものを探すのに一苦労して林が待つ場所へ向かった。

なんだか、あの男とキスしたいと、そんなおかしなことを考えるのは、きっと不安な心のなせる仕業なのだ。
もしかしたら、そんな関係も終わるかもしれないのに。

レンタルショップに着いて、見たくもない女性誌を手に取っていると、刹那は後ろからいきなり左手を取られ、強く握られた。

その瞬きの間に、振り返る必要もなく、刹那には林の決断が伝わった。

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