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山鳩のワルツ

 ガシャン、と大きな音がしたので何事かと洗面所まで行くと、目の前の鏡に拳を叩きつけたまま固まっている男がいた。着崩れた寝間着を羽織る大きな背はぴくりとも動かない。
 拳を中心に蜘蛛の巣状に割れた鏡に血色のない顔がちらりと見えた。

「どうしたんすか」

「いや、なんか……」

 そのまましばらく、外で山鳩が鳴く声だけを聴いていた。


 ぐるっぐるー、ぽっぽー。


 子どもの頃、網戸の外の山鳩の鳴き声で目が覚めたことがあった。
 パラパラ、と音がした。蜘蛛が絵本の上を歩く音だった。


「いたーい」

 血で滲んだ拳についた鏡の破片を払っている。パラパラ、と音を立て床に散らばった。

 ぐるっぐるー、ぽっぽー。山鳩の鳴き声で目が覚めた。

「まーたそういうことする」
「すみません」
「いや、いーですいーです。怪我ないですか」
「あー、はい」

 こういうおかしなことをする人だとは知っていたけれど。夜中に寝言を叫んで飛び起きたこともあったけれど。普段はゆったり話すのに好きな話題だと誰よりも喋りまくるけれど。引っ込み思案なのに変なところで押しが強いけれど。
 実際に”こういうこと“を目にするととても心配になる。

「なに笑ってんの」
「あっ、えっ」

 悪い癖が出た。

「パン食べた?」
「あっ、えっ」
「オーブンに入ってたでしょ」

 パラパラ、と、鏡の破片が床板を跳ねる。ほうきで掃かなきゃ。
 パラパラ、と、笑顔は落ちない。心配しているのに。


 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。


 朝にしては遅い。が、昼にしては早い時間というのが我々の一日の始まりだ。
 洗濯には遅い。が、出かけるにはちょうどいい時間というのが我々の休日の始まりだ。

 蜘蛛の巣状の鏡を何度も角度を変えて覗き込み、なんとか無精髭を剃り落とす。
 幾人もの自分が自分を覗き込んでくる。あまり気分のいいものではない。

「鏡って、あんまり見たくなくない?」

 彼がそう言っていたのをよく覚えている。
 根暗な人間にありがちな思考だ。思考停止だ。
 だからといって割っていい訳がない。いやいいけど。いいんだけど、そんな、割らなくたってさ。鏡なんていくらでも買ってやるし、なんなら鏡を見ないように覆ってもいいし、だって、だってそのきれいな手に、鏡の破片が似合うわけないじゃないか!
 蜘蛛の巣に捕らわれた幾人もの自分が歪んだ笑みを浮かべている。悪い癖がまた出た。心配しているんだよ。

 蜘蛛の巣の製作者はいつも蜘蛛のように音を立てずに近づいてくる。

「したく、終わったの」
「あ、はい」
「またニヤニヤしてるし」
「いや、ちがう、や、はい、えへへへ」

 山鳩はまだ鳴いている。

「て、は」
「ん?」
「手は、血はだいじょぶですか」
「ああ、うん。ごめんね、また」

 出るなよ悪い癖。

「え……ええーへへへ」
「また笑ってら」
「いや、笑ってるんじゃなくて、えーと、えー……」
「ふふ」

 蜘蛛は薄く笑って洗面所から出ていきそうになるので、

「えーと、手、で、良かった、です、ね」
「……ん?」

 ぐるっぐるー、ぽっぽー。

「顔、きれい、だから、ね……」
「…………」

 真顔。蜘蛛の真顔は怖い。
 8本ある手できっと首を締めてくる。

「鏡をね、割る必要もないほど、きれいなお顔ヨ……アンタ……」

 蜘蛛が笑った。腕組みをして扉に身体を預けこちらを見ている。
 彼の笑顔は好きだ。2本の腕できっと抱きしめてくれる。

「アンタ、サ、きれいなお顔してンだからサ、もう鏡壊すのやめナ。ネッ」


 ぐぽっ。


 山鳩が鳴き損ねたような声を出し、静寂が訪れた。


「ネッ、だから――」
「キャラ作って話すのやめてもらえませんか?」

 蜘蛛の大きな手が壁を、とん、と叩く。
 鏡の破片がパラパラと音を立てて落ちた。

「――あっ……」


 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。

 ぐるっぐるー、ぽっぽー。

 ぐるっぐるー、ぽっぽー。


 あー、悪い癖だ。

 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 はげましたい、
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 すかれたい、
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 ごまかしたい、
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 はなしたい、
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 よろこばせたい、

 だけだったのに。


 山鳩は鳴き続ける。


 血のにじんだ手を取る。

「なんですか」

 この大きな手のきれいなこと。この手で幾つもの蜘蛛の巣をこしらえた。

「どうしたの」
「おれがいるのに」
「うん?」

 山鳩。ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 蜘蛛の巣。パラパラ。

「子どもの頃の話なんですけど、夏の暑い日に、網戸のまま寝てたら外の山鳩の鳴き声で目が覚めたことがあったんですよ」
「なに急に」
「で、耳のそばでパラパラって音がして、なんだろうなって探したら、寝る前に読んでた絵本の上を蜘蛛が歩く音だったんです」
「えっ、なに? なんの話?」
「おれはね、ずっとこの音が耳に残ってたんですよ」
「う、うん」
「ずっと」
「うん」
「ずっと」
「……うん」


 ぐるっぐるー、ぽっぽー。
 ぐるっぐるー、ぽっぽー。


「へんな鳴き声」
「おれがいるのに」


 ガラスの破片はもう落ちない。

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