決まっているのは「結末」

※ここに書くすべては厨二病をこじらせた私の妄想に次ぐ妄想です。
ホントに信じないでくださいね。


勿体ぶってもしょうがないので結論から言えば「運命論」になると思うんですけど、視点がちょっと違っているので「努力の否定」ってことでもないし、そう受けとる人はそうかもなとも思えるような。

そもそもなんですけど、どうして「努力すること」が正しいのでしょう。
そこから妄想しないとこの妄想話は成立しないのです。
「どうして人を殺しちゃいけないの?」っていう、平凡な私などはそんな発想をして他人に質問を投げかける、神経を疑っちゃうようなギョッとする疑問にも目を向けることになります。

余談ですが、前記の類いの一般的に物騒と受け取られる質問を好んでするような人の中には「サイコパス的な自分に酔いしれている」という症状の厨二病を発症している方も何人かはいることだろうと言う偏見を持ってます。
病の芽は早期に摘んでおきたいものですね。

こうやって横道にそれながらダラダラユルユルと続けていきたいと思います。

また勿体ぶってもしょうがないので結論から言えば人は「生きること自体が使命」ということです。
これまたそのフレーズだけを見ると「天寿全うまで生き抜きなさい」って思ってしまいそうなんですけど違うんです。 
違うけどそうなんです・・・情緒不安定かよ、って話ですけど。

その人が生まれてから死ぬまでを生ききる。
ただ、その死に方はどうであれ、ってことです。
それもすべて「天寿」、自然な死に方と受け取ると言うこと。

またこう書くと「自死」を肯定するように受け取る人もいるのでしょうが、私がこれから書くことについては肯定とか否定とか善悪とかの概念を置いて考えることを前提としていますし、たかだかそこら辺の取るに足らないようなもんのどうでもいい単なる妄想に熱くなるのは心身の健康に支障をきたしますので、さらっと読み流してもらいたい気持ちがあります。

流行り病とか、2025年に人類超ヤバいとか、宇宙人が距離感縮めてきてこれから世界はどうなっちゃうの?とか、何ならそこも今はあまり関係無く。
現状からは思いもよらないような世界になっちゃったり、滅びちゃったりするかどうかもここではそんなに重要ではありません。

余談ですが、もしも滅びるなら直前にビールだのなんだののアルコールを摂取したいと考えています。
そんなもん怖いですもん。
2025年って、順調にいけばまだボケてない予定ですもん。
ほろ酔い加減をちょっと過ぎたくらいの酔い方で痛みを感じなさそうな状態がベストだと確信しています。

失礼します、ただいま横道から無事帰還しました。
何が言いたいのかと言えば、この人類に与えられる「結末」は、与えられるのではなくて自分たちで持って行かされるのがこの世の仕組みなんではないのか、ってことなのです。







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