映画「プリズン・サークル」を見た

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ずっと見たかった映画「プリズン・サークル」を見た。官民協働で運営される先進的な刑務所「島根あさひ社会復帰支援センター」にて囚人に対し行なわれている回復プログラム『TC』を追ったドキュメンタリー映画である。TCは受刑者自身が他の受刑者との語り合い等を通して自分のこれまでを見つめ直す一定期間の教育プログラムで、刑務作業と並行して週10時間程度実施されるものだが、このTCを経て出所した受刑者の再犯率は他の場合の2分の1に留まるという。
こういうタイプの映画は「社会学」とか「福祉」など特定分野の関係者だけが見るのが普通だと思えるかもしれない。しかし実際に本作を見ればその先入観は変わるはずだ。受刑者たちがやってきたことや生きてきた環境こそは観客の自分たちとかけ離れたものではあるけど、彼らがTCで取り組んでいる課題は私たちと共通だからである。人から傷つけられたり人を傷つけた体験を何一つ持ってない人などいるだろうか?そしてその時に「そういうことになった自分」をどう受け止めるのか、という課題もまた、それと取り組むにせよ逃げるにせよ、誰にとっても無縁でないはずだ。
登場する受刑者たちはほぼ例外なく親や周囲の人から傷つけられた経験を持っている。傷つけられた自分とそのとき向き合う事もできたかもしれないが、とても目を向けることなど出来ず、それ以後罪を犯すようになってからもそういう自分と向き合うプロセスからは一貫して逃げてきたのだなと気づかされる受刑者もいる。それが罪の弁護理由になるわけではない。ただ、そこにはリアルさがあると感じる。
もちろん彼らの経験は私たちには想像もつかない凄絶なものだ。自身の子ども時代の経験を開示するのはTCのかなり初歩的な段階だが「子どもの頃に何があったかほとんど何も言えない」という受刑者がいる。ただ記憶はないのだが自分は家には絶対に置きたくないモノがあり、それは「布団叩き」「ガムテープ」「浴槽」だと言うのである。
いっぽう、彼らが自身の罪と向き合うプロセスも容赦ない。受刑者同士がロールプレイによって加害者役と被害者役に分かれ、自分の犯した罪を再現する。加害者役で自身の罪を再現した受刑者は皆から質問され頭を抱えて泣き出してしまうのだが、被害者役は「ちなみにそれは何に対する涙ですか?」と畳みかける。
「傷害致死を犯した自分は生き永らえてはいけないのだ」と考える自分と「長生きして安楽に死にたい」と考える自分がいると言う受刑者は、空っぽの椅子に対面し、そこにもう一方の自分が座っていると見立てて自分に対する問いかけを行う。「どういうつもりで長生きしたい、なんて言えるんだ?」と問い詰める。そして今度は対面の椅子に座り直し、もう一方の自分が持っている思いを開示する。「いや、自分だって罪を受け止めようと努力している。それに『生きていけない』で終わらせることは、結局自分の罪を考えることをやめることなんじゃないか?」
ここなど、そこらの心理サスペンス映画を見るよりもよほどスリリングであると感じる。
こうしたサスペンスの外側に、これが「刑務所」という枠組みで社会復帰支援のために行われるのは、現在の日本では極めてレアケースだという状況がある。実際にこうして自分のこれまでと向き合い、犯した罪の意味と心理的に向き合うという経験がレアケースだとすると、一般的に罪への罰として行われる刑というものは、何を目指して行なわれている事なのだろうか?という疑問が湧いてくる。「刑期を通して自分の罪と向き合ってほしい」というのは多くの犯罪被害者にとっての願いだろうと思う。しかし、そのような期待は一般的な「罰」を通して果たされ得るものなのだろうか。
一方でこの刑務所が「支援センター」という名称であることに違和感があるという人も少なくないだろう。「こっちは苦労しながら支援も受けずに真っ当に生き抜いているのに、犯罪などを犯した奴がなぜ『支援』なんて受けられるのか?」という思いを持つ人は、むしろ多数派であるように思う。それに対しては「再犯率を下げる」という社会的効用を挙げることも勿論出来るのだけど、それ以上に「犯罪をした者に対して『支援』なんて過分である」という発想は切り替えたほうが良いのではないか?というのが率直な感想である。その論拠について十分に説明できるほど考えは詰められていないので、引っ掛かるという方は是非この映画を見てみてほしい。いわゆる治療的司法という考え方にも通じるものがあると思う。


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