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高山明「Jアートコールセンター」講演で思った、公共サービスとアート作品との“間”のあり方について

ゲーテ・インスティテュート東京で「Jアートコールセンター」に関する演劇畑のアーティスト高山明さんの講演を聞いた。大変刺激的な内容。
「表現の不自由展」により炎上し電凸と呼ばれる長時間抗議電話のスクラムが起きた2019年のあいちトリエンナーレにおいて、出品しているアーティスト自身が電話に出る会社を作り電話受けをしたのが「Jアートコールセンター」というアートプロジェクトである。
会期途中時点で行われた愛知県のコールセンター受電ガイドライン変更によって、オフィシャルのトリエンナーレコールセンターは回線が絞られるとともに10分以上の通話は自動切電されることになり、「長く話したいという人はJアートコールセンターへかけてください」という導線が敷かれることになったという。Jアートコールセンターが果たした機能の成立にはこうした導線があったのである。
センターを合同会社として組織化し、アーティスト自身が電話を受けるにあたってはどこまでを「クレームでなく脅迫」と見なすかの法的検討などを踏まえてマニュアルが作られたのだが、実際の受電では各人がマニュアルを参照せず自由に対話しようということになった。結果3時間にもわたる長時間の電話受けも生じた一方で、アーティスト側が腹を立ててこちらから電話を切る、などといった例もあったという。

高山氏自身が電話受けの中で感じたのは、こうして一つの回線の上で相互に声を交換することそれ自体に意味があり、「相手を説得してこちらの主張を飲ませる」ということはしなくて良いのではないかという事だったという。実際「自分の主張には違う部分もあるのではないか」と電話の相手が気づきはじめたと思うのは、説得をされている時というより、こちらが聞く一方になっているため先方が自分の主張をずっと話し続けている時なのでは、という感覚を得たという。(この話を聞いていて『相撲をとろうと土俵に上がったら、そこは土俵でなく一人芝居の舞台だった』というシチュエーションを思い浮かべてしまった)

あいちトリエンナーレは芸術祭というものが「社会問題」となる戦後日本では初めてと言えそうな事件であったが、そのことは高山氏にとってはプラスなことと受け止められている。閉じられた美術館という箱の壁が崩れ、都市と芸術祭が直接に接続されたのが「あいちトリエンナーレ」という場となったといえるからだ。
参照項として、かつてギリシア悲劇は舞台背後に壁を立てずに背景はそのままアテネの町になっており、演目は全市民が共有しているギリシア神話に素材を取りながらもその枠組みを揺さぶるものであった、という歴史が紹介された。ギリシア悲劇は現存するすべてが「デュオニソス祭」というアテネ市民のための芸術祭での演目である。市民のための芸術祭とは「そこに参加する者は市民である」という枠組をもたらし、一種の秩序を形成する(ギリシア語を話す成人男性が参加者であり、そうでない女性・未成年・外国語話者は参加できないという排除の構造も存在していた)。一方でそこでの演目は、共同体の記憶であるギリシア神話の枠組を揺さぶるものでもある。
“秩序の形成”と“枠組の揺さぶり”という二要素は、私たちには正反対のもののように考えがちだが、アテネの演劇においてこの二要素は「/」で結ばれる関係だったのではないか(ここは自分としては「表裏一体の関係」と読み替えても良いのではと思っている)。

このように公共的な“秩序の形成”ということを、“枠組の揺さぶり”こそが本分であるように思われているアートが今後の社会で担う、という形もアリなのではないか、そういうアートの可能性がJアートコールセンターを通して見えてきたし、そういう局面に至ったならばアートは「作品」であることを忘れて一つの都市の機能として吸収されていくのも良い形だし、自分はそういう可能性を掘り下げていきたい、というのが高山明氏の講演におけるメッセージと理解した。

質疑応答で自分も質問した。
〈今回実際にJアートコールセンターに電話してきた人たちはこの番号を「公共的なサービス」と考えていたのか、あるいは「作品」と考えていたのだろうか〉ということだった。自分の考えとしては、抗議の電話をかける人にとりその番号がどういう「制度」に基づくものなのかによって姿勢は変わると思っている。言い換えれば、それがどんな「土俵」なのか。もし土俵が「公共サービス」だと思えば「いち納税者」という気分でこっちにも言う権利あるぞという気分になるだろうし、「アーティストによる作品」だと思えば主導権は自分にない、いわば他所の土俵にあがる感覚になるだろう(そんな、“上から目線”の芸術家側が用意した土俵に上がりたくないよ、という人も出てくるのではと思う)。
うまい質問にならなかったかもしれないのだが(高山氏の答えは「かけてきた人がなんだと思っていたかは自分には分かり得ない」というものだった)、こうした受け手のつもりを含めてどういう「土俵」を提示できるかはこの試みのポイントなのではないかと思っていて、自分が想像している高山氏の考えは、当初は「作品」という提示の仕方によってある種のエクスキューズを得る形にならざるを得ないかもしれないが、いずれはそうした「公共サービスなのか芸術作品なのか」の二分法の間あたりにある境地を狙うべきである、というものなのではないか。なかなか定義はしづらいが、「公共サービス窓口にクレームを言う一納税者」というあり方でも「アート作品の一部を構成する観客/参加者」というあり方でもない、その二つの間のいまだ定義されざる立ち位置に市民を巻き込んでいくこと、が高山明氏がいま目論んでいるところなのかな、と思ったのだった。

他のJアートコールセンター参加アーティストも含めたディスカッションを検討したいという提案があり、とても興味深かった。またこのような場が日本国のカルチャーを担う公的機関ではなくドイツ文化センターで行われざるを得ない、という事の意味も、改めて考えずにおれないものである。

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