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ハロー、アイラブユー②

じいちゃんが燃えて骨になって、もう1週間が経ってしまった。早い、早すぎる。じいちゃんが死んだという自覚があるのかないのかわからないまま時が経った。
わたしは良い。親はどんな気持ちでいるんだろう。たまに考えるけど、わかりっこないので、何かあったら支えるに徹するしかない。

こんな感じであっという間に一年二年と過ぎてしまうんだろう。もう二度とじいちゃんの声は聞けないんだなあ。最後に聞いた声は唸り声で終わってしまった。


以下、ただの思い出話です。


春、ばあちゃんが骨折して緊急入院することになった。じいちゃんが家でひとりぼっちになることになった。けど、じいちゃんは昔の人なので、家事が出来なかった。なので、よくいく病院でお世話になることになった。

コロナで大騒ぎの時期。他県からの訪問者に良い顔できない時期。でもわたしは父とじいちゃんばあちゃんの元へ走った(車が)(しかも運転免許がないので助手席で歌ってただけ)。

逆にこの時期でよかった。わたしの仕事もまちまちな感じになって、いつ休んでも支障がない状況だったから。身動きがとりやすかった。

久しぶりに会ったじいちゃんは、「よう」と言った。いつもそう。「よう」とか「おう」とか言う。「遠いところからよく来たね」とかはあまり言わない。その気持ちはあったかもしれないけど、そう言わないじいちゃんが好きだった。距離感がずっと変わらない感じが好きだった。

じいちゃんとわたしはちゃんとだいすき同士だったけど、ベッタリはして無かった。思春期の頃はその感じがどうしたら良いか分からなくてソワソワしてた。じいちゃんはそう言うところもずっと変わらない感じで、それがよかった。

じいちゃんはじいちゃんなので、背も小さくなっていた。それでも92歳にしては身体はシャンとしていたし、ゆっくりだけど自力で歩いていた。

新しい鞄を買った、と自慢してきた。ものすごいたくさんポッケがある鞄だった。収納ができまくる、スゲー鞄だ。でもじいちゃん、荷物ばり少ないよね。「ここにも、ここにも、ここにも、仕舞う所がある」っつって、入れたものを出し、出したものを入れ、を繰り返した。なんでやねん。収納ありすぎて定位置が定まらんやないか。

十分程、そうやってあっちこっちに物を入れたり出したりした。

「近くのバス停の時刻表を見てきてくれ。時間が変わっとるみたい」突然のお願いもされた。今までどうしとったんや?エレベーターのないマンション、階段を駆け下り、バス停まで走り、時刻表の写真を撮り、バス停から走り、階段を駆け上がった。新しい時刻表を、じいちゃんがいつも持ち歩いてる謎の大事ノートに書き写して、ついでに家族の携帯番号も新しく文字をデカくして書き写した。

「ありがとう」

じいちゃんはあまり感謝の言葉を言うタイプではない。ありがとうとかも「おう」とかで終わっていた。万能すぎん?じいちゃの「おう」
そんなじいちゃんがありがとうなんて言うもんだから、なんだか照れ臭くて、ニヤニヤした。


じいちゃんはゆで卵が好きだ。というか卵が好きだ。なので祖父母ハウスへ泊まりに行くと、卵料理がたくさん出てきた。

じいちゃんが入院することが決まって、家に誰も居なくなるねえ、じゃあ…と残っていた卵を全てゆで卵にした。小腹が空いたら食べるでしょう。

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ゆで卵、作るの下手すぎん?

こんな地獄のようなゆで卵も、じいちゃんはうまいうまいと言って食べてくれた。

そんなに喜んでくれるのならと張り切ってゆで卵を作った。

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ばりうまなった。

ほとんどのゆで卵をじいちゃんが食べた。こんなに作ったのに、わたしが食べたのは2個だ。普段は全然食べないくせに、ゆで卵はめちゃめちゃ食べるやん。でも嬉しかった。なんかゆで卵うまくなったのもちょっと褒められた。

今まででいちばん、長くじいちゃんと居た期間だと思う。いやわからん、弟が生まれた時も祖父母ハウスに預けられてたみたいだけど、あんまり覚えてないし…。

一緒にテレビを見たりしたのも楽しかった。

じいちゃんのことやっぱりすきだなとおもった。



ってのを14日くらいに書いて、下書きのままになっていた。ガハハ!とりあえず公開すっぞ


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