【追悼】絵のなかの人びととの出会いを胸に、安野さんの旅立ちを見送りたい ~『旅の絵本』
旅は、高いお金を出して日本の名所や世界各地に出かけていくことだけが旅ではありません。私は、路地裏をさまようのが大好きなのですが、この角を曲がったら何があるのだろう、さびついたベランダの柵に蔦の絡まった家を見上げて、人は住んでいるのか、住んでいるならどんな人か、などと想像するのが好きで、それもまた旅なのではないかと思うのです。
『旅の絵本』は、この路地裏をうろつく時の「思いがけないところに思いがけない人やものがある」という感覚を呼び覚ましてくれる、最高の絵本でした。とくに第1巻をひらいた時のときめきは、ほかの絵本とはまた違うものでした。
『旅の絵本』のはじまり
・表紙
表紙は渋いうす緑色を基調にして、ところどころ木々の黄色や農家らしい薄茶色がアクセントになっています。高い空から見た鳥観図になっていて、人びとのいとなみや、牛たちがのんびりと草を食む平和なようすが細かく描かれています。
ここは日本ではなく外国。家のつくりからいって、ヨーロッパのどこかだろうかと思いますが、地理にうとい私はこの建物がどこのものなのかは特定できません。
車などのテクノロジーを感じさせるものはひとつもなく、庶民の移動手段はもっぱら徒歩か馬、あるいは手こぎの舟。
表紙を細かく見てみましょう。
左の方に、画家が風景をスケッチしています。女性がその絵をのぞきこんでいます。そばには女の人の子どもらしいふたりの子が、絵などには見向きもせず自分たちの話に夢中になっています。
目を転じれば畑を耕すことに余念のない人、たまたま道端で出会って世間話をする近所の人同士、手作りのシーソーで遊ぶ子どもたち。馬で闊歩しているのはこの村の役人でしょうか。あるいは、この絵本の主人公の旅人?
この絵本には、表紙にタイトルの「『旅の絵本』安野光雅」という文字がある以外に、本編にも文字は出てきません。絵のない絵本はありえませんが、文字のない絵本はりっぱに成立するという見事な例が、この『旅の絵本』です。
・岸辺にたどり着く旅人一人
絵本の扉を開くと、画面の3分の2をしめる大海原と、残りの3分の1を占める岸辺が見えます。旅の男は大海を手こぎの小さな舟をこいできて、やっと岸辺にたどり着いたところのようです。迎えに出ているのは鹿一頭だけ。あとは一面の草原です。
そこからしばらく行くと村人に出会いました。向こうの方に掘っ立て小屋がありますから、そこの住人かもしれません。旅人はこの人と話をします。馬を売ってほしいと交渉しているのでしょうか。次のページでは旅人は馬に乗っていますから、交渉はうまくいったのでしょう。
・岸辺から村へ、村から街へ、そして
旅人は馬に乗ったまま、岸辺から農村へ、農村から街へ、そしてさいごには海へと帰っていきます。
『ウォーリーを探せ』という、たくさんの人間たちのなかからウォーリーを見つける絵本は皆さんご存じでしょう。この絵本でもたくさんの人びとが描かれていますから、そのなかから旅人をさがすというのもこの絵本の楽しみ方としてはあると思います。しかしそれだけでは、この絵本の10分の1も味わっていません。
画面にはたくさんの人びとが、細かく描かれています。疲れた手を休めて友達と話をしている人、どんな話をしているのかな? 教会のすぐ近くの草原でプロポーズをしている人、娘さんは申し出を受け入れてくれたらいいな。いろいろな遊びに興じる子どもたち。お母さんの手をひっぱりながら「急いで、急いで」と息せき切って走っている子どもは、いったいお母さんに何を知らせたいのだろう。
村では今まさにマラソンのスタートの号砲が鳴るところ。それが次のページでは選手たちが懸命に走っているシーン。村人たちの「がんばれー」という声援が聞こえてきます。取り澄ました貴婦人はそんなはしたないことはしません。静かに笑みを浮かべて立っています。
ページが進むにしたがい旅人は馬を進めます。その時間軸に沿って人間のいとなみもくりひろげられていきます。村や街並の美しさを鳥の視線でながめるのもこの絵本の楽しみですが、細かく描かれた人の一人ひとりの生活、交わされることば、さらに人生を想像するのも楽しい。子どもの手を離れた風船がどこへ漂っていくのか、ページをめくってずっと追いかけるのも楽しい。
あれ? このページに描かれたこの人たちは、あの名画にそっくりだ。ああ、あの童話がこんなところに描かれている。そんな作者のいたずらに乗ってみるのも心地いいですね。
この絵本を何回も見ている私ですが、まだ発見していないことが隠されているかもしれません。
安野さんの、次の世界への旅立ちへ
旅に憧れる気持ちは皆さん、共通にもっておられるものではないでしょうか。それは、日常から離れた世界にはすばらしいものがあるに違いない、という直観からくるような気がします。
その思いを、実際に旅に出ることなく、しかも期待以上のすばらしさで満足させてくれた『旅の絵本』。その作者であり、憧れの人であった安野光雅さんが2020年12月24日に逝去されました。またひとつ、大きな穴がひとつぽっかり空いてしまったという思いはあります。でも彼もまた新しい旅に出かけたのだとも思うのです。
絵本の最後の場面では、馬は木につながれています。旅人はまた海へ向かって歩いていきます。セリフはありません。しかし、その背中が何かを語っています。その姿が安野さんと重なって見えました。ここから彼はまた、誰ひとりことばを交わす者のいない大海へとこぎだしていくのです。街の喧騒、子どもたちの笑い声、マラソンの人びとの汗、みんな思い出として胸に閉じ込め、旅立っていかれました。
合掌
タイトル画像の絵本=『旅の絵本』安野光雅・作 福音館書店
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