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ゲゲゲの謎を見に行った感想を書く

なんかおもしろそう……らしい


 2023年12月。突如Twitter(現:X)のTLにゲゲゲの鬼太郎の映画にまつわるファンアートが流れ出した。
 ゲゲゲの鬼太郎。多分私が見ていたテレビシリーズは三期か四期辺りだったはずだ。それ以外では六期の猫娘の作画が萌え化している云々で話題になったことや、大昔に夏休み朝のこども劇場で再放送されていた悪魔くんを見て恋をする程度には好きだったことが水木しげる作品に関する私の体験の全てである。

 原作もいつか読みたいなあと思いながら全てをスルーして20数年ぶりに鬼太郎作品に触れるわけだが、公式サイトさえ閲覧しない、ただTLで受動摂取をするだけでも「父親達の話」「陰鬱」「犬神家の一族」などと言うお察しワードが飛び出ていたので、多分ネタバレを踏み抜くと見に行かないだろうなあと思ったので気持ち急いで2023年12月26日にいそいそと映画館へ足を運んだ。タイミングが悪く入場特典もパンフレットも手に入れられなかったのが少し残念である。パンフレットは再版してほしい……もしくは受注生産式でも良いので……なんとか……(オタクのうめき)
※追記 パンフレット受注生産受付中だったのでこの記事を書いて公開した後直ぐに注文しました。

ゲゲゲの謎公式Xよりキービジュアル

キービジュアルが悉くいい。

ざっくりした感想+冒頭についてすこし

 この作品はPG12である。映倫のレーティング区分では『小学生には助言・指導が必要』と記されているし、上映前に案内があった。
 映画を見た私から言わせてもらえばこの作品は『PG12相当の描写がある』ではなく、『R18+の内容をPG12で表現しなおした』が相応しいと思う。

 これを……説明、するの……? 小学生に? 誰が? ほ、保護者が?! 

 はえ~世の中のお父さんお母さんってすごい(小学生並みの感想)

インパクトのあるキービジュアルの一つ。ただ本編は血みどろなゴア表現よりも倫理的にキツイ内容がPG12の枠に収まるように描写される。

 冒頭に少し出てきた鬼太郎と猫娘(ろっきのすがた)で、時間軸がまだ過去のものでないことがわかる。彼らが足を運んだ場所で過去に起こった出来事が本作のメインになるが、既に終わってしまった過去の出来事へのアプローチとして現代の描写が導入される。
 この構成で、最序盤でラスボスの末路が出てくる描写が大好物な私は終盤でラスボスがどう処理されたかを見て歓喜した。全て知った上で二回目を見る楽しみが残されているのが分かるので。

 村へ通じる唯一の道が恐らくトンネルでしか繋がっていないところや、文明の利器(車)がその手前までしか行けないことなど、怪異ものとしては鉄板な描写が冒頭にある。主に昭和31年当時の世界観を描くパートなのだが、血液銀行に関する話の掘り下げは一切無いため、見終わった後墓場鬼太郎の一話を見てから映画を見るとイイゾというレビューを見て泣いた。まあでも見なくても水木の会社がどんな会社なのかの説明は作中にあるので気にしなくてイイゾ。

 全て見終わって思ったけど、この作品に対して胸を打ち抜かれているのは『作品の掘り下げを自力で行える人』かなと思う。序盤はともかく、基本的に台詞で説明する作品ではないので。

ネタバレしかない感想

 さて、ここからは最低限龍賀家の相関図や、各キャラクターの目的が何かを頭に入れないと分かりにくい内容に入っていく。見ていない人には極めて優しくない書き方になるが悪しからず。

 トンネルを抜けた先、電柱はあるので電気は引いてあるのだろうが、それでも『田舎と言えばこれ』みたいな景色が広がる。道中の山(森)も深い。ようやっと立ち入った村の中、出歩く者もないなかで水木が出会った美少女・龍賀沙代は鼻緒が切れて道ばたで難儀していた。これ、オカルトを迷信だと斬って捨てている価値観の男(水木)の視点ならまだしも、沙代的にはシンプル縁起が悪いとならなかったのだろうか。直後に出くわしたよそ者・水木は、彼女の目にはどう見えていたのだろう。鼻緒が切れたことが凶と出るか吉と出るか、過らなかったのだろうか。あるいは、この時点で既に沙代には破滅の予感に対して「それもいい」という投げやりな気持ちが心の片隅にあったかもしれない。白馬の王子よろしく「ここから連れ出してくれること」を夢見る一方、「この男は死に神ではないか」と思っていたかも知れない。後者は完全にただの妄想です。

 この沙代、水木に対して「村から連れ出して欲しい」と口にしており、彼に対しては様々な思いを抱いている事が窺えるが、水木に取引を持ちかける際には妙に色っぽい顔つきになり、この時点で既に彼女が何も知らぬ少女ではないことを窺わせる。思わせぶりな彼女のアップが妙に印象に残るようなカットだった。実際、彼女は既に男に抱かれており、思わせぶりだったのは、品のない言い方になるが『女』の顔をしている描写だったというわけだ。(沙代は終始「私を村から連れ出して欲しい」と言っていたので、人を蹴落としてでも自分だけは逃れようとする人間の顔、ということもできるかも知れない。水木は沙代に垂らされた蜘蛛の糸のように見えていたのかも)その上その相手が実の父である時貞であったことが後に判明する。勿論乗り気だったわけではなく、一方的な行為だったことは作中で語られている。
 性的に奔放な描写が作中でされていた沙代の姉であり龍賀家次女の丙江も、おそらくはそれが原因で苦しんでおり、自傷行為として性行為に及んでいるものと思われる。彼女が若い頃駆け落ちするも連れ戻されたあたりにも原因はあるだろうが。

 龍賀家の子ども、特に長女・乙米の娘沙代と三女・庚子の息子時弥は彼女たちの実父である時貞が自ら孕ませた孫、否、子どもたちである。彼女たちはそれぞれ夫を持っているが、龍賀の家の外に対するカムフラージュ且つ龍賀の手足として使役される存在になっている。つまり姉妹全員のみならず、沙代まで時貞の子を孕むよう手を出されていたわけだ。この辺りがR18+なんだよなあ……。ちなみに時貞の目的は『近親相姦により、より霊力の高い龍賀の子を産ませ、その子の肉体を乗っ取る』ことで日本を影から『導く』ことにあり、沙代と時弥はその目的のために時貞の毒牙にかかっている。沙代は母体として。時弥は身体そのものを。
 だが、娘たちは見目麗しいので、深い欲望や野心の中に実の娘であろうと見目良い女を好きなように抱く快楽もあっただろう。そう思わせるほど欲深い時貞はこの作品におけるラスボスである。

 さて、沙代が時貞と乙米の子であることが分かり、話の流れで乙米、丙江、庚子、そして沙代までもが時貞によって恐らく処女さえも奪われた(丙江は駆け落ちのタイミングが分からないが、どのタイミングでも人生観を壊されるには充分だっただろう)ことを知った水木は、従軍時とは異なる悍ましい行為に対して思い切り嘔吐する。彼は少なからず戦争を経て、上のお偉方に対する鬱屈した感情と、そういう人たちに命さえ搾取された持たざる者の末路に対する虚無感(むなしさ)を起爆剤に野心に火をくべ続けてきた。人の欲望に踏み潰されないために、他の人間を押しのけ、蹴落としてでも強い力(権力と富)を渇望していた男だった。
 その男の野心はここに来て形を保てなくなっていく。龍賀の実体を知る頃には水木はゲゲ郎とお互い酒を酌み交わすまでに至っており、彼から誰かを愛することの素晴らしさだけでなく、人の真剣で真摯な気持ちを踏みにじってはいけないという発言に対して素直に耳を傾けるまでになっていた。近親相姦の話が最後の一押しになったように、水木はここから『真っ当な』道へ戻っていく。相手の目を見て平然と嘘をつけた男は、ゲゲ郎と交わした約束を守り、義理を通していく。
 一方、人の心を踏みにじる事を止めた水木は嘘がド下手クソになる。地下のMの現液製造工房(血液採集所)で水木が龍賀家の因習を既に知っていることを乙米から知らされた沙代は、時貞と自分に身体の関係があったことばかりか、沙代が一連の殺人事件の犯人であることまで察されていたことを知って破滅を選んだ。相手に対し誠実であろうとした結果、水木が、だからこそ目を逸らしてしまうのは印象的だった。水木は最初から白馬の王子の役目ではなかったが、彼が人の心を想ったからこそ何も取り繕えず、ぎこちなく目を逸らした姿は、沙代にはどう見えただろうか。私の目には水木は踏みつけられた少女に対する労りや憐憫、かと言って安易な言葉など掛けられない躊躇いの様に見えたが、彼女はそこに違う意味を見出しただろう。自分が抱えていた恨み辛みや悍ましさ、嫌悪感。それを他者から浴びたように感じたのではないだろうか。そんな気がする。水木が外から来た男だったが故に、彼女は自分の心を鏡映しにして見てしまったのだ。彼の一挙手一投足が、彼女にとって世間からの目に等しかったから。だから彼女は村を出ても意味がない、この世に生きる限り救いなどないのだと絶望した。

 私には、沙代と水木の間には恋というものは無かったように思う。打算と目的があったときの方が上手く物事が運んでいるように見えるのも皮肉だ。
そう言った人の心、愛情、というならば、乙米と長田の関係の方が余程あったように思う。彼らが情を交わし合っているような関係性が垣間見えるのは、近親相姦の話をした後に謎の咆哮直後、二人が抱き合っていた(ハグ)ことや、最期のシーンで長田に助けを求める乙米に長田が最後に乙米の名を呼んで必死に向かうという極めて短い部分のみ。それ以外では長田は村長かつ裏鬼道という外法の組織を束ねており、鬼太郎やゲゲ郎たち幽霊族とは因縁の深い対立組織に身を置く人物だ。幽霊族の血を調達したい龍賀家と目的も一致しており、手を組むのは必定だが、この二つのシーンだけで「ああ二人は恋人関係か、そこまで行かなくとも両思いなのだろう」と思うには十分である。
 この村では真摯で真っ当な人間が割を食う。恋を貫くには心中しかないような場所で、慕う人への心を捨てないまま現世という地獄を生きている二人がいたのは印象的だった。カップリングなら断然この二人の話が見たい。
  また、この二人は対外的に別に夫婦関係(書類上)を持っているのだが、W不倫というよりも、そもそもが仮面夫婦なので二人は互いに書類上の相手を持つ前から好き合っていたのだろうと何故か自然と考えていた。本人もくさくさしていたが、乙米の夫の克典がどこまでも徹底的に部外者でよそ者であることが強調されていて、個人的にはそこも好きだ。

 沙代が長田の刀に貫かれ、青い炎に焼かれて死んだのは沙代が狂骨化(妖怪化)していたのか、長田の刀にそう言う力があったのか……。長田の扱う術を思えば前者が濃厚だろう。
 感情と衝動に飲み込まれた彼女が被害者から加害者へ転じただけではなく、生きながらにして人ならざるものへと変貌を遂げてしまったことには無力感やさびしさだけでなく、人として在るために必要なもの(他者を思いやる心、あるいは理性、道徳心)を捨ててしまった者に対する『ツケ』が徹底されているところも好ましく感じた。

 翻って私は一体どれほどの『ツケ』を持っているのか。直視したくない話だ。だからこの作品はホラーであり鬼太郎ものなのだ。説教ではない。ただ淡々とした因果がそこに残される。それを見て何を思い、どう生きていくのかを常に確かめられているような気がする。

その他

 尺の都合で随分とシナリオを削ったらしいが、そう言う理由もあってかミステリとしてもバトルアクションとしても、怪異ものとしても、見ている間はずっと物足りなかった。だが忘れてはいけない。これは鬼太郎ものだ。よくまとまっていて、表現もレーティングに合わせてあってとても見やすかった。また、こういう内容を盛り込んだものが見れる環境に圧倒的感謝🙏
 エンドクレジットからその後の映像が一番もう一回見たいと思わせられた。記憶が無くなるけど大事なことは心が覚えている話は何回見ても心が締め付けられる。水木の悲しげな声が辛かった。でも、受け継がれていくべきものって知識や記憶そのものではなくて、心なのかも知れない。

 違う人のレビューで水木の煙草を吸う描写を見て「愛煙家なんだな」と言われていたがやはり知識があった方がエンタメは楽しくなるのは間違いないと思った。葉巻の吸い方もね。(手のひらドリル)

 作中で誰も彼も左目をブチ抜かれるけど、この龍賀の一件の因果が鬼太郎の左目に……ってコト?! 目玉おやじも左目から出てきたもんね?!

 沙代の呼びかけで狂骨大暴れする所、完全にゾンビものだったし、換気扇に身体押しつけられて殺されるところバイオみがあって良かった。

 ちゃんちゃんこが紡がれるところ、なんか魂の荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)みたいで対比されていて良かった。龍賀が散々命を軽んじていた分、時弥を救えなかったことに対する無念も含めて『子は宝』なのが真っ当で好き。

 水木、戦争を経験して価値観破壊されて、多分持ちたくもなかった野心を無理に燃やしていた反動が心配だったけどそういえば龍賀での記憶なくなってるんだよな……。狂骨に襲われて髪白くなっているの孝三と同じなので何かあるのかなと思った。

 名前に関して『娘に乙、丙が入っているから実は乙米の前にもう一人いたんじゃないか』とか『時麿は長男だから時の字を継ぐのは良いとして孝三は本来三男だったんじゃないか』とか考えている人がいて面白い。個人的には陰陽道にも通じるし、十干の中から取ったのかなと思っていたけれども、はてさて。甲乙丙……だったら丙から庚まで三人抜けていることになるけれど、それはそれで未熟児だったり様々な要因で亡き者となったのかもしれないし、分家へ出されたのかもしれない。

 

見た後に意味が分かるいいキービジュアル。

追記:トンネルの役割

 そういえばトンネルをくぐる描写について全然書いてなかったので追記しておく。備忘録のため。
 トンネルはオカルト的には結構優秀なスポットかなと思う。心霊スポットとしてトンネルが挙がる例は枚挙に暇が無い。同時に、暗い洞窟を抜けて『生まれ変わる』話も結構散見される話では無いだろうか。洞窟や鍾乳洞など、「胎内くぐり」はトンネルとも相性が良いと思う。特に光源のないトンネルにおいてだ。
 最初はトンネルの意味について考えたりもした。ただのパロディやオマージュかな、はたまた『振り返ってはいけない』系の話に絡めて、先行きが決して良くないことを暗示しているのだろうか、など。しかし水木がこの村に行き、帰って来たときには記憶こそ失っているが、心は失っていない。寧ろ心根は情に深いものになっている(はずだ)。
 これはある種『生き返った』と言えなくもない。作中の随所にこの言葉は深く関わるが、水木はあの村の人間で唯一善性(他者へ手を差し伸べる慈悲・隣人愛的情動・命への敬意や尊重)を手放さず、寧ろ自覚的になったことで生還を果たした。ゲゲ郎との信頼関係もその一つで、彼らは互いに持ち寄った善性によって再び『世間・社会』というものへ再び生まれたと言えるだろう。誰かを大切にできる者は、誰かによって助けられる。そう言う話でもある。
 トンネルそのものは村へ続く唯一の道のためしっかり描かれているが、トンネルの中を歩く描写などは一切無い。それでもこの入り口にして出口は色んな役割を持っているように思う。実際、トンネルの先にある村は『法(人のルール)が届かない異界』で、殆ど人ならざる者達の世界だからだ。

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