「アナキスト」を名乗る意味
先日、アンチワーク哲学者であるホモ・ネーモさんの書肆七味での一日店長体験の打ち上げをささやかながら行った。
慣れない書店員業務の直後、お疲れのところを俺の都合のよいエリアに呼び出し、サシ飲みするという打ち上げという名目からするとかなり失礼なことをしてしまった気もしている。とはいえ、楽しんでいただけたようで良かった。
宗教や社会システム、果てはお互いの人間観まで、かなり広範に語り合うことができて、俺もめちゃくちゃ楽しかったです。
安居酒屋で唐揚げを貪りつつ対話したなかで、しかしネーモさんと語ることができなかった「アナキズム」について、ここに俺の立場をはっきりさせておこうと思う。
ネーモさんは下記の記事でアナキズムの「流行」とそのウィークポイントを2023年4月の時点で端的に書いてくれている。
ネーモさんは居酒屋で「あまりにも書きすぎていて、一年前の自分が何を書いたかさえ憶えていないが、芯の部分はずっと変わらない」と言っていたので、おそらく今も「アナキズム」に対する視線はこの記事とほぼ同じ意見であると推察する。
俺もこの記事に概ね同意する。
実はそもそも自分が本当に「アナキスト」なのかどうか、今や怪しいとすら思っている。
というのも、自分が「仏教徒」であるとか「念佛者」であるというのは来世に亘るまで不変かつ積極的に自己定義すべきカテゴリーだと信じているものの、それに対してアナキストは名乗ったもん勝ちみたいな感じが否めない。
当然アナキストを養成する大学も無ければ、資格を交付する民間団体があるわけでもない。
国家に縛られない自由な精神性を涵養し、同志を募るため、わざわざ気鋭のアナキスト(を自称するインテリゲンチャ)の著書を読み漁ったり、外山合宿を受けたりする人たちが多い現状も肯ける。
俺の場合、「アナキスト」を自認し始めたのは高校生くらいのころだった。
学校生活も私生活もすべてが面白くなくて、そうした身近な絶望がやがて既得権益や中央集権、法秩序の暴力性みたいなものへの怒りに変わっていったように記憶している。
加えて、「日本人」や「大和民族」という民族的アイデンティティにも懐疑的で、「日本」という国は巧妙に創り上げられたフィクションなのでは?という直感のようなものもあった(これに関しては今もある)。
しかし今や、そうした初期衝動のような勢いのある狂いはなくなり、ただ内面の訓練を怠った歪みだけが加齢とともに積み重なっているような感じがある。
しかしこれもまたさらに歳を重ねれば、誤りだったと気づくのかもしれない。
真に帰依すべき法に出遇った今、「アナキスト」の看板は別に降ろしてしまってもなんの差し支えもない。ただあの頃の自分を供養するためにも、そしてあの頃の自分と同じ怒りや悲しみを今現在感じているお前のためにも、権力と支配には抗い続けたい、的な。
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