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ずっと自分の価値や素晴らしさが分からなかった理由。

怒りや悲しみを感じているような時に
自分が考えていることを観察してみると
自分に相当残酷な部分があることに気づく。

でもそんなものを認めてしまったら
自分がとんでもない悪人にでもなって
嫌われてしまい生きていけないような
気がするから

"私には残酷さなんてない"

と主張して自分の中に見た残酷さを
無かったことのようにする。

そして他人の中に残酷さを見た時
非難し裁いて

"私の中には無いけどね"

と言って安心しようとする。

大体非難したり裁いたりしている他人の
何かって残念だと思うこともあるけれど
自分の中にもあるなと思うことがよくある。

いくら"私の中には無い"と主張しても
あるということに変わりはなくて

認めるまでは否定した自分の一部が
他人を通して訴えかけてくる。

でも否定している自分の一部がどんなに
認めたくないとしか思えないようなもの
だったとしても

認めても困ったことなんて起きなくて
むしろ認めることができたなら
自分の一部となり騒がなくなってくれる。

自分の残酷さや醜さを認めるって言っても
実際にそうなるということじゃない。

ただ認めて自分の一部として
受け入れるというだけ。

否定しているものは
あくまでも自分の一部。

好きであろうが嫌いであろうが
ずっと付き合っていかなきゃならない
自分の一部であって

他に代えがない一種類しかない
部品みたいなもの。

だから否定すればもう切り取って一部の部品が
無いままで生きていくしかない。

切り取ってしまえば
正常に動かなくなってしまう。

だから悪いものを取り除いて
安心しているつもりなのに

何故か違和感や苦しみが増していく
なんてことになってしまう。

キレイで優しい人間になりたくて
悪いものを取り除いたつもりだったのに

悪いものを取り除けば取り除くほどに
他人を非難したり裁いたりすることが
増えていき

人に見返りを求めた優しさしか
与えられなくなっていった。

自分の一部が気に食わないから
否定して排除したら終わり、

なんてそう都合よくはいかなかったよ。

本当は悪いものは取り除くのではなくて
認めて受け入れなければならなかったのだ。

ずっと否定して取り除いてきたものを
認めて受け入れていったら

非難や裁きの思いがなくなっていって
本当の意味で人を大切にすることが
できるようになった。

そして

"私には残酷さや醜さなんて無いんだ"

と主張する必要がなくなったから

わざとらしい優しさを与えたり
わざとらしい笑顔を振り撒いたりして
無理して善人ぶって疲れるということも
なくなった。
 

否定し排除している自分の一部を認めて
受け入れて正常に動く乗り物で
楽しく快適な人生を歩むのか

否定して排除したままでほとんど使い物に
ならない不便な乗り物で不自由に生きるのか。

自分という乗り物から
降りることはできないんだよ。

乗り物も部品も選べないんだよ。

否定して排除するのはそれが悪いものだと
思い込んでいるから。

でも本当は認めて受け入れている
他の部分と同じただの自分の一部だよ。

だから否定し排除しているものを
認めて受け入れてしまっても
とんでもないことになるなんてことはない。

むしろ認めて受け入れるからこそ
乗り物が最高のパフォーマンスを
発揮してくれて

否定し排除することで抑え込まれていた
自分の素晴らしさを知ることができる
ようになる。

素晴らしい乗り物に乗っているように
見える人でさえ

自分が否定し排除しているのと同じ
部品を持っている。

もう自分の一部を否定し排除して
沢山の何かを諦めるような人生はやめた。

自分の中からどんなに残酷で醜いものが
出てきたとしても認めて受け入れていこう。

そして自分でもまだ知らない
自分の素晴らしさを知っていこう。

私って、思った以上に残酷で醜くて
思った以上に素晴らしい人間だったよ。

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