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マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

先日札幌旅行にいったんですが、その際になんとなく読み始めました。

いわゆるストア哲学の後期の人ですね。僕ストア哲学って原始仏教じみてて好きです。なかなかマスターオブライフ的な切り口が多いので、困ったことがあった時、いかにして嵐をさけるかというよい行動や考え方の指針になりますね。

なんか他の近代に近い哲学っぽい本より読みやすいのは、キリスト教的な倫理観が入ってないために、あり方を正当化するする必要がないので、理屈っぽくないからなんじゃないかと思いました。

以下は自分なりのメモです。

人が失いうるものは現在だけなのである
人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。
何かするときいやいやながらするな、利己的なきもちからするな、無思慮にするな、こころにさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やお節介をつつしめ。
すべてつぎのようなことを君に強いるものは、自分に有利なものとしてこれを大切にしてはならない。たとえば信をうらぎること、自己の節操を放棄すること、他人を恨むこと、疑うこと、乗ろうこと、偽善になること、壁やカーテンを必要とするものを欲すること等。
意見をつくる能力を畏敬せよ。
ただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということ
実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持っていれば、なおさらのことである。
隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。
なにがいったい賞められるから美しく、非難されるから悪くなるであろうか。エメラルドは賞められなければ質が落ちるか
我々のいうことやなすことの大部分は必要事ではないのだから、これを切り捨てればもっと暇ができ、いらいらしなくなるであろう。それゆえにことあるごとに忘れずに自分に問うてみるがよい。「これは不必要なことの一つではなかろうか」と
要するに人生は短い。正しい条理と正義をもって現在を利用しなくてはならない
我々の熱心を注ぐべきものはなんであろうか。ただこの一事、すなわち正義にかなった考え、社会公共に益する行動、噓のない言葉、すべての出来事を必然的なものとして、親しみあるものとして、また同じ源、同じ泉から流れ出るものとして歓迎する態度である。
なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない
明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。
普遍的物質は従順にして柔靭である。
もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ
自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになりきっているときこそこれにもっともたぶらかされているのである
何が尊ぶべきものとして残るか。私の考えでは、自己の(人格の)構成に従ってあるいは活動し、あるいは活動を控えることである。
あらゆる技術の目標は、すべて作られたものが、その作られた目的である仕事に適応することにある。
あることが君にとってやりにくいからといって、これが人間にとって不可能であると考えるな。しかしもしあることが人間にとって可能であり、その性質にかなったことであるならば、それは君にも到達しうることだと考えるべし
我々とともに競技をしているともいうべき人たちにたいして、多くのことを大目に見てあげようではないか。なぜなら私のいったように、人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから。
死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。
君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。
彼の意見に公然と反対する者にたいしては忍耐し、もっと良いことを教えてくれる者があれば喜んだ。また神を畏れつつも迷信に陥ることがなかった。
器具や道具や容器などは、そのこしらえられた目的を果すならばみな上出来なのである。しかしその場合これをこしらえた者はそこにいない。ところが自然によって組立てられた物においては、これをこしらえた力はその中に内在し、そこにずっと留まっている。
彼らはそれぞれ異なっていながら同一の目的に向かって協力してはいないだろうか。
会話に際しては人のいうことに注意していなくてはならない。またあらゆる行動に際しては、その結果生じてくることに注意していなくてはならない。後者においてはそれがどんな目的に関連しているかを最初から見抜くこと、前者においては、その意味がなんであるかを注意すること
必要な事柄のうちなにが変化なしに果されえようか、君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのがわからないのか。
つねに、そしてできることならあらゆる場合において、自分の思念に物理学、倫理学、論理学の原理を適用してみること
行動においては杜撰になるな。会話においては混乱するな。思想においては迷うな。魂においてはまったく自己に集中してしまうこともなく、さりとて外に飛散してしまうこともないようにせよ。人生においては余裕を失うな
宇宙の自然は理性的動物を相互のためにこしらえ、彼らがそれぞれの価値に応じて互いに益し合うようにしたのであって、決して互いに害し合うようにはこしらえなかったのである。
精神の堕落というものは、我々をとりまく空気のいかなる汚染や変化7よりもはるかにひどい疫病である。なぜなら後者は動物の疫病で、動物性に影響をおよぼし、前者は人間の疫病で、人間性に影響をおよぼすからである
働け、みじめな者としてではなく、人に憐れまれたり感心されたりしたい者としてでもなく働け。ただ一事を志せ、社会的理性の命ずるがままにあるいは行動し、あるいは行動せぬことを
しかし君は彼らにたいして善意を持たねばならない。なぜならば、自然は彼らを君の友として作ったのであり、神々も夢や託宣を通して彼らを助け、彼らの心にかかっているものを獲得することができるように計らってやるのである
もし神が存在するならば、万事よし。もしすべてが偶然にすぎないならば、君までゆきあたりばったりに生きないようにせよ
君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる、なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである
世界は絶えざる悪に悩まされるべく定められているのだ
いかにして精神は、肉体の中の動揺に参与しながら、しかも動ずることなく自分自身の善きものを保って行くか
君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうようなことをした者はないのを君は発見するであろう。君にとって悪いこと、害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ
他人の過ちが気に障るときには、即座に自ら反省し、自分も同じような過ちを犯してはいないかと考えてみるがよい
健全な精神もあらゆる出来事にたいして用意がなくてはならない。ところが「私の子供たちが助かりますように」とか「私がなにをしようとも皆の者に賞讃されますように」などという精神は緑色のものを要求する眼であり、柔らかいものを要求する歯である
君をあやつっている者は君の内に隠れているものであることを記憶せよ
理性的な魂の特徴。自己をながめ、自己を分析し、意のままに自己を形成し、自己の結ぶ実を自ら収穫し
私はなにか社会に有益なことをおこなったか。それならば自分が利益をえたのである
一人の人間から離反した人間は、社会全体から落伍したのである。
いかなる自然も技術より劣ることはない。なぜならば、諸技術は種々な自然の模倣なのである。そうだとするならば、あらゆる自然の中もっとも完全でもっとも包容的な自然が、巧みな技術にひけをとるはずはない。
怒るのは男らしいことではない。柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、同じく一層男らしいのである。そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気とを備えているが、怒ったり不満をいだいたりする者はそうではない。なぜならばその態度が不動心に近づけば近づくほど、人は力に近づくのである
人間をも責めてはならない。なぜならば人間は無意識的にでなければ過ちを犯さないからである。したがってなんぴとをも責むべきではない
第一に、何事もでたらめに、目的なしにやってはならない。第二に、公益以外の何ものをも行動の目的としてはならない
すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい
君の行為に関しては、でたらめにやらないこと。
自分に与えられた素材の範囲内において正しく生き、節制を守り、神々にすなおに従う者として身を持する
人間の幸福と精神の平安は徳からのみ来る
その倫理のみがその厳格なる道義観をもって今日もなお崇高な美しさと権威とを保っている。しかしこれもまたある限界を持っている。この教えは不幸や誘惑にたいする抵抗力を養うにはよい。我々の義務を果させる力とはなろう。しかしこれは我々の内に新しい生命を湧き上がらせるていのものではない

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