毎日はいつまでだろう

生きている。この状態はとても曖昧だと思う。会ったこともない人の「死」に、文字列のみで接して涙できるほど曖昧なのだ。存在と不在の境界さえよくわからない。

人間はみな、適度にいたりいなかったりする。たとえば、ひとりの人がふつうに玄関を出ていったあとの不在と、亡くなったあとの不在、この両者にちがいはあるのだろうか。そんなことを、ちいさな頃からよく考える。どちらもいないことには変わりがない。

玄関から出ていくふつうの不在は、いわば「いなくならずに、いなくなる方法」なのだと思う。安心して気兼ねなく、いなくなる。アクセス可能な不在。とくに意識せず「ふつうの」と書いた。この「ふつう」によって補完される想像力がわたしは気になっている。「地続きの」と言い換えることもできそう。

亡くなった人もまた、時間の経過とともにやがて「ふつう」の範疇へと収まる。「いない」というかたちでの存在が認められる、ような。やはり「いなくならずに、いなくなる」。死の直後は不在が際立つものの、そこから儀式を通過し、生活のサイクルを取り戻すにつれて想像的にアクセス可能な「不在としての存在」へと徐々に変換される。

あまりにも人間は、いなくなれない。どんな不在も、生者の曖昧な時間に飲み込まれてしまう。人間は人間の不在を、単なる不在として取り扱えない。「どこかにいる」と思ってしまう。カーブの向こう側や、壁を隔てた向こう側も世界が地続きであると自然に解釈するように。死者も隔たれた「どこかにいる」と。

もしかすると人は「不在」なるものに耐えられないのかもしれない。あるいは、やや飛躍気味にこうも言える。人は「個」であることに耐えられないのではなかろうか。

いないものはいない。いるものはいる。そんな時間の一方向性に耐えられない。わたしがわたしとしてのみ、生きて死ぬ。この一方向性にも耐えられない。どこかであやふやな境域を差し挟まないと、おそらく気が狂ってしまう。いすぎてはいけないし、いなさすぎてもいけない。だから、適度にいたりいなかったりする。自分自身ですら。

わたしたちには「あやふやな境域」が必要不可欠なのだろう。目に見えない、想像的な記憶の境。現に、意識を失うあやふやな時間が1日のうちにかならず訪れる。眠るとき。あるいは眠りのための、なにをするでもないひととき。曖昧な明滅のとき。

眠った人は「いなくならずに、いなくなる」。玄関から、ちょっとコンビニへ出かけるように。いない。もう寝てる。どうしようもなくあやふやで、たまにすこしだけ、かなしくなる。毎日のことなのに。たぶん、個人的な感覚では「死」もさほど変わらないのだと思う。いつの間にか。なんだか、途方もなく曖昧だ。なにもかも。










にゃん