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「意識はランダムになれない」について






「意識はランダムになれない」について、ぼやぼや考える。ひとつ前の記事に書いた、養老孟司さんのことば。頭のなかでは賽を振れない。ルーレットをまわせない。意識は規則性に準じてしまう。いわれてみればあたりまえなんだけど、とてもおもしろい。これをめぐって、いくらでも夜を使い果たせる。

自分の撮った写真を見返しながら感じる。ひたすら歩いて、いきあたりばったりの出合い頭に撮りまくっているだけでも、統一感が出てしまう。なんら決めたわけではないのに、似たようなものを撮りたくなる。知らずしらずにランダムを拒んでいる。結果、自己同一性があらわになる。

かといって「何を撮っているのか?」の問いにはうまく答えられない。目につくそのへんのもの。ただ中心ではない、ゴミみたいな、周縁のもの。意識的に選んだわけではなく、しかし無意識でもありえない。自分にとっての写真は意識と無意識の境界に位置している。言語と非言語の境界、ともいえる。あいだをつなぐ、ひとつの結び目。睡眠中の夢と似ている。





「バイアス」は意識がランダムになれないから生じるのではないか。認知の偏り(偏見)を指摘する「なんちゃらバイアス」って名称がたくさんあるけれど、これはつまりあらゆるところに規則性を見出してしまう意識の特性を指摘している。客観的な正誤は関係なく、わたしたちはすきあらば規則性を発見しまくる。

バイアスを排除するためには極端な話、意識をなくすとよい。そうだな……。たとえば客観性の担保された実験の手法に、ランダム化比較試験(RCT)がある。そのひとつ、二重盲検法の説明を引こう。

二重盲検法(にじゅうもうけんほう、英: Double blind test)とは、特に医学の試験・研究で、実施している薬や治療法などの性質を、医師(観察者)からも患者からも不明にして行う方法である。プラセボ効果や観察者バイアスの影響を防ぐ意味がある。

二重盲検法 - Wikipedia

当事者にはわからないように(意識させないように)試験をおこなうことで、結果の信頼性が担保される。意識はランダムになれない、ゆえに編み出された手法といえる。極端な話でもないか。意識自体がそもそもバイアスの産物なのだと思う。「ランダムになれない」は、「客観的になれない」と言い換えることもできる。あるいは、「公平になれない」とも。

科学的な方法論は「信頼できない要素の排除」を時代ごとに洗練させてきた。その到達点として、人間の意識が排除された。こう考えると、おもしろい。RCTの発明はまちがいなく時代を画する到達点のひとつだろう。


余談ながら、プラセボ効果ってやつが前々から気になっている。偽薬でも効き目があるって、どないなっとんねん。科学的には排除の対象になる、一般化できない体のはたらき。ここに信頼をめぐる相克があるように思う。集団的な信頼と、個人的な信頼の相克。RCTは個々の信頼をノイズとして取り除く。





「ランダムになれない」は机上の思考のみならず、体の動きにもいえる。たとえばランダムに両腕をぶんぶん動かそうとしても、結局おなじ動きの繰り返しになったり左右対称になったりする。散歩をしても、ついついおなじ場所をぐるぐるまわってしまう。

思うに、ランダムな動きは気持ちが悪い。映画『エクソシスト』のブリッジで階段を降りる少女、あれはランダムにちかいからおそろしい。あんなん予想だにしない。多くの人が昆虫や爬虫類の動きに感じるキモさも、ようするにランダムのキモさなのではないか。

じっと観察すればすぐに規則的だとわかるので、キモくなくなる(はず!)。『エクソシスト』の少女にも規則性が見いだせれば、きっとこわくない。2回目の視聴は1回目の視聴よりこわくない。パターンがわかれば対応できる。なんでもそう。

格闘家が目指す究極はたぶん、意識をギリギリまで削いだランダムにちかい身体操作なんではないか。つまりパターンを悟らせない、相手の対応を許さない動き。古武術研究家の甲野善紀さんはたびたび「まず自分自身を騙す」といったお話をされている。意識を削ぐ。そのために鍛錬をする。

意識を研ぎ澄ますことは、意識をなくすことにかなりちかづくのだと思う。


意識は情報を限定しようとする。複雑な世界を、かんたんに約す。体からことばから、どんどん自分用に約してしまう。そして、その約された世界にとどまろうとする。狭く、いじらしく。偽薬が効いちゃうほどの頑迷さで、わたしたちはこの世をサバイブしている。





にゃん