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肯定と否定、自由と不自由、ないはずのもの

古本屋で「人生を肯定するまなざし」と書いてある背表紙を見かけた。たしか井上ひさしに関する新書だった。中身の話はしないので、ぼんやりした記憶のままつづける。気になったのは、「人生を肯定する」というフレーズ。もともと誰の人生も肯定されているように思う。わざわざしなくても、途方に暮れるほど。わたしたちは、つねにすでに生きてしまっている。気がついたら肯定されていた。

たぶん、人間の価値観は否定や禁止の道程に宿る。自分にいかなる規制をかけるか。あるいは、かけられているか。人生はそうして、だんだん弱くなっていく過程ではないか。チェスや将棋の布陣は、なにも動かさない最初の並びが最強という話を思い出す。まっさらな可能性を交互に限定していく。駒を動かすたびに、すこしずつ弱くなる。横一列にまとまっていたものがバラバラになってしまう。ひとりになりゆく過程ともいえる。

可能性は時間とともに限られてくる。ことばも、書けば書くほど話せば話すほど不自由になるような……。沈黙した状態が最強なのだ。ひとこと置いた瞬間にぐらついて隙ができる。そうして自分の不自由を思い知ることで自由の余地が浮かび上がるのかもしれないし、不自由を強化するだけなのかもしれない。わからない。「自分を知る」とは、自分の不自由を知るってことなんだろう。

ことばの「隙」を介して人と話す。不如意な弱さでつながる。人間の社会はきっと、そういうふうにできている。このブログは、わたしの抱える不自由がよくあらわれている。「それしかできない感じ」というか。それしかできない感じ。お年寄りを見ていて思う。人はだんだん、それぞれのかたちで「それしかできない感じ」になる。

わたしはわたしの不自由を行使することしかできない。自由はおそらく、自分から発するものではないのだ。他者から受け取るもの、ではないか。あなたの不自由がわたしを自由にしてくれる。わたしの不自由があなたの自由につうじている。そうであるといい。すくなくともわたしは、そんな循環を思い描きながらことばを使う。

読み書きは緊縛プレイみたいなもので、我慢強さが必要だと思う。どんな本も我慢して読む。一冊の書物は、ひとつの不自由のかたちともいえるだろう。人の話に耳を傾けることもまた、その人の抱える不自由を聴くことだ。

ある妨げを受け取ることによって道が分岐する。水の流れをイメージしている。妨げによって分岐流路が生まれる。障害物のおかげで支流がひらかれ、流れの範囲が広がってゆく。それが自由の余地になる。泥臭い浸潤の感覚が自分のなかにはある。

 初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変りはない。言葉はあとから来るものだ。

谷川俊太郎『沈黙のまわり』(講談社文芸文庫、p.131)より。なにもない大地に、あとからあとから滲み込むような。あるいは、取り繕いなのだと思う。時の繕い。ことばは、ないはずのものだ。ないはずの物事を、ないはずの時間を存在させる。そのふしぎが絶えず頭の片隅にある。ないはずのものがある。

良くも悪くも「否定しない人」と言われる。わたしにそういう部分があるとするならそれは、逆説的だけど何もかもありえないと感じているからだと思う。あらかじめ全否定している。ないはずのものがある。人はないはずのものを、あらしめてしまう。ならば、すべてはまずあるようにしか扱えないのではないか。ありえないことがありえている現実を前にして、「ない」とは言えない。なにひとつ。

なんか抽象的なことをえんえん書いてる……。
「それしかできない感じ」が出ている。

にゃん