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誰でもよかった

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休日、よく晴れた玉川。公園から川辺に降りる。犬を連れた人々、しゃぼん玉であそぶ少年、階段にすわるカップル、体操をするおじいさん、川に石を投げる若者、虫を探す親子、ジョギングをする人、寝っ転がるおじさん、杖をつくおばあさん、電動車椅子の青年、笑い転げる女子高生、ふと立ち止まって写真を撮る人、などにまみれて歩いた。この場所には余裕しかない。余した時間が集まる空間。

来るたび、「ここは幸福の巣窟だ」と思う。くさくさした気分だと、「けっ」となるかもしれない。「余裕しかない場所」というのは要するに、役割が決まっていない場所のことだ。こういうことをする場所です!と定められていない(とうぜんながら、いくつかの禁止事項はある)。さまざまな人が一堂に介して、思い思いのことをしている。そうした場所に身を置くと、ほっとする。誰が誰でもいいんだと思える。全員互換的というか。

わたしは「ふと立ち止まって写真を撮る人」だったけれど、そうではなくてもいい。石を投げても、虫を探しても、体操をしても、杖をついても、車椅子を走らせても、笑い転げていてもいい。誰でもよかった。そういうたぐいの安心感があった。わたしはそんなに、わたしではなくてもいい。変な話。でも、安心感とはそのようなものではないかしら。

余裕がないときは、役割に追われている。やることがある。わたしがわたしの役を、しっかり負っていないといけない。もちろん、そこで芽生える責任感や義務感もたいせつ。なんだけど、そればかりだと人は疲弊してしまう。誰でもいい場所に、束の間でも身を委ねることができれば「くさくさした気分」にも陥らないはず……。いや、腐っていてもいい。それもまた相対化されるから。どんな気分でも、誰が誰でもかまわない。

公園が好きだ。都市の中で、いちばん安心できる場所かもしれない。よく「ダメな大人」の典型として、昼間から公園でワンカップ片手にうなだれているおじさんが描かれる。これは裏を返せば、社会の隅に放逐された何者でもない人の居場所は公園くらいしかない、ということなんだろう。公園は目的のいらない、都市のだぶついた空間である。名前を失う、何者でもない時間を引き受けてくれる。「余り」をむやみに埋めてはいけない。





にゃん