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自分と自分でないもののあいだ、虚実の均衡、二つになる一つのもの

前回(日記1020)、予告した内容を適当に済ませたい。日記882(「現実との拮抗力~」)とも関係する。書こうと思っていたのは、「できないことが練習によってできるようになる過程」のふしぎについて。そこでは現実と虚構の均衡が起こる。以上、おわり。いや、もうすこし展開すべきか……。伊藤亜紗『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)を読んでいるとき思いついた。この本のプロローグに「技能獲得のパラドックス」というものが出てくる。

①「できない→できる」という変化を起こすためには、これまでやったことのない仕方で体を動かさなければならない
②そのためには、意識が、正しい仕方で体に命令を出さなければならない
③しかしながら、それをやったことがない以上、意識はその動きを正しくイメージすることはできない
④意識が正しくイメージできない以上、体はそれを実行できない(p.9)

つまり「体が意識の完全なる支配下にあると仮定するかぎり、私たちは永遠に、新しい技能を獲得できない」というパラドックス。あらゆる技能獲得は意識を振り切って「体はゆく」からこそ可能になる。思いがけずできてしまう飛躍がある。なんでかしらんけど。意識はそのことに、あとから気がつく。あれ? もしかしていま、できてた? と。

“「できる」とは、自分の輪郭が書き換わることであり、それまで気づかなかった「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」に着地すること(p.239)”と伊藤は書いている。意識がそれまでの自分ではありえなかったべつの自分に触れる。できてしまう。まるで自分ではないような自分があらわれる。それは感動的であり、よく考えればゾッとする不気味な事態でもあるのかもしれない。

なぜ、できないことを練習すると「できる」に至るのか。上記の「グレーゾーン」を「現実と虚構の均衡点」などと言い換えたところで、なにもわかった気がしない。ただ、過去に自分が考えていたロジックがここにも当てはまりそうだと気がついただけ。

もうひとつ引用したい。田中彰吾『自己と他者 身体性のパースペクティブから』(東京大学出版会)には「コツをつかむ経験」について以下のような記述がある。

 コツをつかむ経験において生じているのは、身体イメージに沿って意識的に身体を動かしている状態から、状況に見合ったしかたで全身が自発的に動く状態への、運動の質の転換である。メルロ=ポンティの身体図式論の観点からすると、コツをつかむ経験は次のように記述することができる。コツをつかむ以前の状態では、運動を遂行している身体各部位の動きが全体として協調しておらず、いまだ「ばらばら」な状態にある。しかし、練習を繰り返すうちに、完成された運動のイメージに沿って身体を動かそうとする意図と、実際の身体の動きがたまたま一致する瞬間が訪れる。メルロ=ポンティはこの瞬間を「運動的意味の運動的把握」と表現する。動きのただなかで、全身を一貫して流れる時空間的な配置を経験すること、と言い換えてもよい。
 上体の構え、手の動きの大きさと力の入れ具合、軸足の保ち方、など、身体各部位の動きを意識的に調整するだけでは、コツはつかめない。そうした努力は必要条件ではあっても、十分条件ではない。コツをつかむ経験には偶然性が打ち消しがたくともなっている。動作の意図と実際の動作がたまたま一致するからこそ、「できた!」という明証性のある感覚がともなうのである。この点は、運動学習にともなう喜びや感動の経験とも連続しているだろう。(p.38)

「イメージに沿って身体を動かそうとする意図と、実際の身体の動きがたまたま一致する瞬間が訪れる」「コツをつかむ経験には偶然性が打ち消しがたくともなっている」。

イメージの身体と、実際の身体が偶然に一致する。そこから「できない」が「できる」へと徐々に変化していく。つまり、過去を再編する足がかりができる。

中井久夫は統合失調症患者の回復過程において「偶発時の活用」を説いていた。偶発時とはおそらく、物語の再編に関わる事態なんではないか。「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」の活用ともいえる。統合失調症のみならず、メンタルの回復過程全般には「偶発時の活用」が不可欠ではないかとわたしは思う。

逆に「できる」が「できない」に変わる、そこにもイメージの身体と実際の身体を一致させてゆく同様のプロセスがある。「できない→できる」にせよ「できる→できない」にせよ、そう安々と一致できないところが人間の難儀さだろう。

実際はできないのにできると思い込みつづけていたり、意外とできるのにできないと思い込んじゃっていたり。虚像と実像がちぐはぐにすれ違う。自分に対しても、他人に対しても。そういうことは多い。わたしにも経験がある。基本的に意識は保守的だと思う。変化を厭う。永遠を夢見る。それは生きるために必要な防衛機能でもある。体は意識の保守性など無視して、勝手にゆく。心臓の鼓動はじつに身勝手だ。そのはじまりも、おわりも。

なにかのきっかけで「自分であって自分でないもの」を承服することにより、虚実の均衡は訪れる。「自分であって自分でないもの」とは、体それ自体のことかもしれない。連綿とつづく生態系の内にある曖昧な、それでいて、これ以上なく確かな体を承服する。その承服過程は、前回も書いた「免責することで引責できる」という責任の生成過程にも、たぶん通じている。



以上の内容は、この動画も参考にしている。


ようするに受容することの思いがけなさ、なのかな。「できる/できない」も、疾患とそこからの回復も、「免責/引責」も。わかるも、わからないも。感動も。受容にかかわる。

それはいつだって、思いがけない。頑固に突っぱねていた感情でも、ふとしたきっかけで受容してしまう。いまわたしは、そんな状態。けっこうつらい。まだ突っぱねているのかもしれない。らくになりたい。「受け入れられない」は言い換えれば、「恒常性を保ちたい」ってことで。思いがけない現実の変化についていけない。すこしずつ変わればいいか、すこしずつ。

でも思いがけないものは、じつはそこらじゅうに転がっている。自分の体をはじめとして。ちょっと目線を変え、気をゆるめれば押し寄せてくる。何事もないほうがおかしく感じるほどに。


歩道橋


先に引用した「コツをつかむ経験」。あれを最初に読んだとき思い出したのは、大谷能生のグルーヴに関するエッセイだった。『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』(本の雑誌社)に収録されている、「二つになる一つのもの(グルーヴとは何か?)」。サンプリングの組み合わせからなるブレイクビーツの聴取経験とは、どのようなものか。大谷は次のように書く。

反復され、積み重ねられるサンプルの一つ一つを聴き分け、一つのビートから複数の過去を経験すること。あるいは、それまで無関係だと思っていた過去が突然のようにつなぎ合わされ、一つの現在となって鳴り響くこと。現実に流れる時間のなかで、複数のものが一つになり、一つのものが複数に分岐してゆく――ブレイクビーツに聴き取ることが出来るこのような振動状態を、ぼくは「グルーヴィー」と呼びたい。(p.16)

これはまさしく「動きのただなかで、全身を一貫して流れる時空間的な配置を経験すること」であり、ばらばらだった体の動きが練習を繰り返すうちにひとつになる感覚とも似ている。あるいは、「過去の再編」をパラフレーズしたものとしても読める。メルロ=ポンティの「運動的意味の運動的把握」は、大谷的な意味における「グルーヴの把握」と言い換えても、そう遠くないだろう。乱暴かな……。

さらに乱暴をはたらくなら、伊藤亜紗『体はゆく』もグルーヴ論の一種として、わたしには読める。「できる」とは、非常にグルーヴィーな経験なのだと思う。「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」への着地は、「二つになる一つのもの」の発見であり、虚実がどよめきあうグレーゾーンへの着地でもある。

音楽の聴取から離れても、グルーヴはいたるところに見いだせると大谷は書く。ダンスや演劇やセックス、はたまた「その場で垂直に飛び跳ねること」、あるいは

ただ単に、誰かと話すこと。自分のなかにあった言葉は、相手のなかでそのまま異なった存在に分岐する。そしてそれが他人の口からふたたび帰ってきたとき、一つだった言葉は無数のスペクトルを顕在化させて、ぼくたちの耳を震えさせるだろう。発話を抜きにしても、言葉はつねに声と文字とのあいだで振動しながらぼくたちの生をつらぬいて走っており、その外側に追い出された書き言葉はそのまま、複数の声と過去が折り重ねられた地雷として、大きな時間のなかでふたたび枝分かれさせられることを待っている。(p.19)

ひとつのものが複数化する、複数化したものをひとつに束ねる。そのサイクルが際限なく繰り返される。そんな運動体として、わたしたちのことばはあるのではないか。虚実の織物を編むように。4月のおわりごろ、『体はゆく』と並行して澤直哉『架空線』(港の人)を読んでいた。

思い浮かべる――人間の思い、心や言葉は、まず虚構として空に架けられる、なにやら宙に浮いたものです。しかしそれは、この現実のどこかに必ず着地する。私がブックデザインや本に強い関心を持っているのは、ひとりの小さな人間の心や言葉が生み出す虚構が、どのようにして形ある物となり、複数の人間に共有される現実となるのか、という問いが、文学の、もっといえば人間の思考様式や存在形式の根本に関わるのでないか、という直観があるからです。(p.11)

この問いもそう、「できる」とはどのような事態か、グルーヴとは何か、と自分のなかでは類似した問いだ。同じく、そこに強い関心がある。と思う一方で、ちょっとちがうことも考える。

それは、この現実のどこにも着地しない、誰にも共有されなかった、ひとりの小さな虚構のこと。つねに置き去りにされるものがある。止まった時間。おおげさにいえば、そこに自分の実存がある。誰にも見向きもされない、亡霊のようなわたしがいる。なんて拗ねた野郎だ。

「できない」や「乗れない」の側に軸足を置いているのだと思う。反グルーヴ。あるいは、ひとりよがりな虚構に魅力を感じる。けっして複数化しない、あらゆるコミュニケーションから逸脱したひとつ。捕捉できない一匹の羊。あまり表には出さない(出せない)けれど、自分でも恐ろしくなるほどの否定性を抱えている。なにも話す気がない。破壊衝動だけがある。シャバでちゃんと生きてるだけ偉いと思う。格闘技でも始めようかと本気で思案する。

きっと自分はつねになにも話す気がない。話したくもない。いつもがんばって話してる。とりあえず死なないために。きょうもがんばった。がんばったぞい。


(そんな日もある)

2024.06.12|日記1021


にゃん