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2022/07/13. どこで恥ずかしくなったでしょう、リアリティの破れ目、本当の恐怖

7月13日(水)

「クイズ! どこで恥ずかしくなったでしょうか?」を見た。「人間はどこで恥ずかしくなるのか? それは他人にはわかるのか? 恥の概念にせまるクイズです」と概要欄にある。深く考えても浅く楽しんでもおもしろい。すばらしいクイズ。人間はどこで恥ずかしくなるんだろう。

「見てる人が見えなくなるとすごい恥ずかしい」という古賀及子さんの発言がもっとも示唆的だと思う。「不安になると恥ずかしくなるのかな」ともおっしゃっている。たしかに。ふたつの発言を掛け合わせて「ひとりになると恥ずかしくなる」と言うことができそう。逆に、ジロジロ見られる恥ずかしさもある。それもまた、仲間外れにされるようなものだろう。

あるいは……怯むと恥ずかしくなる。「恥ずかしさ」は「怯え」と近い。どんなことでも、堂々とやりきれば恥ずかしくない。そのためにはやはり、なんかしらの支えが必要なのではないか。その「なんかしら」が、古賀さんの言う「見てる人」に当たる。たぶん人間でなくてもいい。それぞれのリアリティを担保してくれる何か。守護霊でも神さまでもぬいぐるみでも「見てくれている」と信じていれば、堂々と歌って踊りきれる。にちがいない。

「証城寺の狸囃子は正解のある踊りだから恥ずかしくないのでは?」という、これも示唆的な感じがする。「正解のある踊り」とは、いわば「みんな知ってるアレ」である。「みんな知ってるアレ」なら怯む心配も、ひとりになる心配もない。みんながあなたのリアリティを担保してくれる。

「恥ずかしさ」の淵源はたぶん、リアリティの破れ目にある。歌詞が出てこなかったり、見てる人が見えなくなったり。ふと「虚」に気づいてしまう瞬間、みたいなとき。「あ、虚しい」と。「恥ずかしさ」と「虚しさ」は、ほとんど同義語ではなかろうか。とても近い。あるフィクションのリアリティが破れかけたとき、恥ずかしくなる。そのほつれを放置すればやがて、虚しくなる。

恥ずかしさは瞬間的で、虚しさは持続的? なんかそんな気がする。太宰治が書いた「恥の多い生涯」とは、ようするに「あるフィクションのリアリティが崩壊しまくる(嘘がバレまくる)生涯」と言える。「恥ずかしさ」は虚実の裂け目と関係している。そしてこれは、日記904で引いた借金玉氏の「カルトに引っかかりにくい人」のツイートともつながる。

「こんな茶番」という反応は多分に、恥ずかしさからくるものだろう。なりきれなさ。リアリティが感じられない。「カルトに引っかかりにくい人」は「虚実の裂け目にこだわりがちな人」ともいえる。ロールシャッハテストを受けても、「ただのインクのしみ」としか思えないような。田原俊彦が目の前にいても、「鉄アレイで殴りつづけると死ぬ」としか思えないような。

「田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死ぬ」は2ちゃんねるのスレッドタイトルで、これのおかしみも虚実のギャップにある。「田原俊彦」という虚像含みのきらびやかでオンリーワンな固有名と、「鉄アレイで殴りつづけると死ぬ」という極めて一般的な乾いた事実とのギャップが笑いを誘う。きっと笑えない人も多いだろう。

急激に人を虚しくさせる。そんなたぐいのおかしみ。笑いは恐怖とも近い。「ロールシャッハテスト」からの連想で、アラン・ムーアの『ウォッチメン』を思い出した。

「ベッドに座り…」 「ロールシャッハ・カードを見つめた」 「その染みは茂った木に見えると自分に言い聞かせたが…無駄だった…」 「どうしても、猫の死体に思えて仕方がないのだ。ヌメヌメと太ったウジ虫の群れが その体表をびっしりと覆って、光から逃れようとうごめいている」 「だがそれすらも本当の恐怖ではない」 「本当の恐怖…それは、この模様が無意味なインクの染みにすぎないということだ」 「我々は孤独…」 「ただ それだけだ」

本当の恐怖…それは、田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死ぬということだ。言うまでもなく、わたしも鉄アレイで殴りつづけると死ぬ。あなたも鉄アレイで殴りつづけると死ぬ。我々は鉄アレイで殴りつづけると死ぬ。みんなおなじように。ただそれだけだ。






にゃん