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長い余談

更新していないと、書き方を忘れてしまう。いっそ忘れてしまいたい気もする。ハナ・ホルカという方が亡くなったらしい。名前を目にして、吹き出してしまった。チェコの方だったか。訃報で笑うなんて、と思いながらもやはりおかしい。ハナ・ホルカさん。これだけを書き残しておきたくなった。数秒の出来事。あとはとりとめのない余談。人の死に対してどう感じたらよいのかも、うっかりすると忘れてしまうような。学びつづけていないと、ちゃんと残していないと、なんでも忘れてしまう。感情さえ。

訃報で笑った記憶をさかのぼる。2009年に、ベンソンという名の巨大なコイが死んだ。あれがさいごかもしれない。どこのニュースサイトだったか、「巨大コイ、ベンソン死す」の大仰な見出しがおかしかった。イギリスでもっとも愛されたコイだという。日本語のWikipediaにも項目がある。ベンソン(魚)。

ベンソンは捕まえやすいことで有名だったそうな。「その捕まえやすさ(accessibility)は釣り名人の間で議論を巻き起こしたこともある」らしい。

「釣り人はいつだって彼女が好きだった。なぜなら一尾の巨大魚と写真を撮るチャンスがあったからだ。何人かのまじめな釣り人は彼女が好きではなかった。なぜなら彼女はあらゆる人に心を開くからだ」

「まじめな釣り人」は気難しい魚のほうがお好きなのか、かんたんな獲物を厭うみたいだ。その感覚は、なんとなくわかる。アホウドリを思い出す。この名称も「捕まえやすさ」からきている。ベンソンも同様に「まじめな釣り人」からは、アホな魚だと思われていたのだろう。ふまじめな、ふざけた魚だと。もっとまじめに泳げと。

なお「アホウドリ」に関しては、蔑称だとして「オキノタユウ」へと改称しようとする運動がある。このことを知ったのは、古本屋で購入したダイアン・アッカーマンの『消えゆくものたち 超稀少動物の生』(筑摩書房)に、海鳥研究者である長谷川博さんの私信が挟まっていたからだ。名前を検索してみたところ、彼は「オキノタユウ」への改称運動を行う第一人者なのだった。

捕まえやすいものは、アホとされる。「捕まえやすさ(accessibility)」は「わかりやすさ」と言い換えることもできよう。何年か前、「わかりやすい説明」に関してわかりやすく説いてくれる本を何冊かまとめて読んでいたときに感じた。「わかる」とはつまり、アクセシビリティの担保なのだと。

そのときは、交通の比喩が念頭にあった。アクセスのしやすさ。「わかる」と思うときには、それを近くに感じている。近所の道なら、よくわかる。あらためて言うまでもないことかもしれない……。いつものごとく、あたりまえの感覚をわざわざ洗いなおしている。逆に、「わからない」は遠い。

たとえば、ハナ・ホルカさん。彼女の「死」に想いを馳せるためには、詳細の検索や想像を介して距離を詰める必要がある。それよりも日本語の響き、「鼻・掘るか」のほうがわたしにとっては身近でアクセシビリティが高い。実際のハナ・ホルカさんより、「鼻・掘るか」という概念のほうが近くにある。ゆえに訃報ながら、おかしみが前景化される。

このように、「わかる/わからない」は空間的・心理的な距離の問題として展開できる。「わかりやすくしてほしい」というセリフは「近くに来てほしい」と言い換えることもできるだろう。近づくためには、その対象の位置を知らなければならない。見知った仲なら、行きやすい。見知らぬ者同士の場合には、あいだを埋めるコミュニケーションが必要になる。背景を探るところから。

入矢玲子さんの『プロ司書の検索術 「本当に欲しかった情報」の見つけ方』(日外アソシエーツ)には、多種多様な「出会い方」が紹介されている。情報の見つけ方は、人間の見つけ方といっても過言ではない。ときに、司書には心理カウンセラーのような能力も求められるのだとか。

 図書館は、さまざまな人が行き交うオープンな空間です。自分の状況や感情をあからさまに言えないこともあるでしょう。遠回りの言い方をしたり、無意識のウソが交じったりするのは仕方ないのです。
 だから司書は、事務的な対応はしません。言葉を丸呑みせず、ウラをつかもうとします。
 ぶっそうな例ですが、あなたが司書だとして、「楽に自殺できる方法を調べてください」と依頼されたらどう答えるでしょうか。
 「わかりました! はい、これです」ではアウトだと思います。
 相手が本当は何を望んでいるかを聞き出すのが先決です。危険な自殺願望に取りつかれているのか、難問を抱えて捨て鉢になっているだけなのか。
 「ご依頼の理由も教えていただければ詳しく調べられます。病気とか失恋、事業の失敗などがありますが?」といった問いかけによって、司書は本心を聞き出そうとします。
 「ある人が難病で、死にたいなんて言うんですよ」といった断片がつかめれば、「治療情報から当たりましょうか?」「治療費の公的支援のデータもあります」などと対応できます。
 こういう時の「ある人」は利用者自身であることも多いのですが、そんな経験知は表情に出さず、本心の引き出し役に徹します。検索する前に、心理カウンセラーになるのです。
 すると、相手も自分の感情に対して客観的になれます。いわば情報と「情」をいったん切り離せるようになるのです。
 そうやって人間関係が築かれると、利用者は本心をストレートに語るようになります。情報探しの正確さとスピードは、そこから加速度的にアップします。pp.41-42

依頼者の居場所(心)を探り、その場所から行ける方角の選択肢を示す。そんなお話。おもしろいのは、本心をストレートに語るようになれば情報探しの正確さとスピードは加速度的にアップする、という部分。自分がどこにいるのかわかれば、その位置情報に見合った行き先へアクセスしやすくなる。

わたしは長いこと、自分がこんなに哲学っぽい問いにこだわりがちな人間だと思っていなかった(「わかる」とは何か? みたいな)。あるいはヒトの心理、ひいては宗教性に興味があるなんて自覚は二十歳過ぎても生じなかった。二十代後半あたりから、すこしずつ自分の傾向にことばが宿りはじめて、三十代のいまに至る。まるでさいきん物心がついたような心地だ。

接続先が見つからず、ことばを持て余していた(いまもまだ判然としていない部分はある)。ずっとひとりだと思っていた。でもその「持て余し」の一部には、じつは古くから試行錯誤の歴史があった。多くの先人が通過した轍があった。それに気づいてから、ことばがすこしずつまわりはじめた。

まだ知らない通路は、たくさんあるのだろう。ことばは、もっとさまざまな方向に行ける。通じている。どうにかすれば、なんでもつながるんだと信じている。現にハナ・ホルカさん、ベンソン(魚)、アホウドリ、プロ司書、ここまですべてつながっている。想起のネットワークを介して、すくなくともわたしのなかでは……。こうやって、自分なりの因果を編みなおしているのかもしれない。

『侯孝賢の映画講義』(みすず書房)を読みながら感じた。侯孝賢は、自分なりの因果を編みなおすように映画をつくっている。「私たちは通常、現実を模倣し、現実を再創造しています(p.68)」と彼は言う。

映画製作に関する話だけれど、あえての誤読として、もっとベタに受け取りたい。現実は、目の前にありのままで転がっている手つかずの世界ではない。自他のフレームを介して再創造された、手垢にまみれた世界なのだ。映画で再創造せずとも、最初から作為が混入している。現実にはかならず、自分の手がうつりこんでしまう。

 古人は「芸に游ぶ」と言いました。現代の書道や絵画であれ、以前六芸と呼ばれたものであれ、それらはすべて造形を通した自分との対話なのです。まず造形ありきなのです。音楽ならば音楽の、書道ならば書道の、そして映像ならば映像の、それぞれが拠って立つ造形があります。つまり、ただ闇雲に考えてもダメなのです。みなさんは必ず、画面というものを通して現実を理解しなければなりません。そして画面とは、現実をフレーミングしたものであり、私たちが実際に見るものとは別のものなのです。みなさんもすでに学んでいることでしょうが、フレーミングしてはじめて、いわゆる「距離感」が生まれ、美的経験が生まれます。フレーミングによって凝縮が、つまり特定の範囲内への集中が起こるのです。もっとわかりやすく言うと、みなさんがあるものを捨て、あるものを枠取るのは、そこにみなさんが興味を覚え、何らかの美を感じたからです。だからこそそれを切り取ったのです。ここが非常に重要です。 『侯孝賢の映画講義』p.138

フレーミングしてはじめて「距離感」が生まれる。ポイントの切り取り。そこからおそらく、「わかる/わからない」といった知性のひらめきもはじまるのだろう。そしてこれは、煎じ詰めればリアリティの問題でもある。自分のリアリティを構成するものは近くにあり、わかりやすい。遠く離れたものはリアリティが薄れ、わかりづらい。

いずれにせよ距離をとらなければ意識にのぼらない。「自分との対話」も、一定の距離があるからこそ成立する。距離をとるため、つまり意識的な経験を得るためには、何らかの造形が必要である。媒体、メディウムなどといってもおなじだろう。「まず造形ありき」は、「まず距離感ありき」とも言い換えられるのではないか。

入矢玲子さんのお話でも、まずは図書館の資料という媒体を通じて依頼者との距離を築いている。そこから相手の「本心」にアクセスする。きちんと司書としてのパースをとって、相手の心を描きはじめる。きっと人間は誰でも、なにか造形を手がかりに現実を解釈している。人それぞれの拠って立つ造形がある。

写真を撮る人は、カメラと意識が癒着してくる。映画を撮る人なら映画と、音楽をつくる人なら音楽と。身近な造形がリアリティの構成要素となる。文章を書く人も、読む人もあるいはそうかもしれない。いまの時代は、テレビやSNSがもっともポピュラーなフレームだろう。自分の意識を規定するフレームに意識的でありたい。

ヒトの現実はどこまでもつくられたもので、つくりつづけていないと、なんでも忘れてしまう。感情さえ。いや、ちがうな。つくりつづけていないと、つくられるだけになってしまう。だいたい、世界は一方的につくられるばかりである。ぼーっとしていると、やられっぱなしのまま時が過ぎる。たまには、ちょっとくらい、つくり返しておかないと。

「訃報で笑うなんて」というポーズをとりつつ、人の死は悲しむべきものなのか、じつは疑問に思っている。もちろん悲しみは生じるが、それだけで死をわかったことにしたくない。はっきりした感情で考えたくない。もっと曖昧で、終わりようのないものだと、自分のリアリティに準じて感ずる。

「死」はつくり返したい概念のひとつとして、いつもくすぶっている。それはすなわち、「生」をつくり返すことにも通じるのかもしれない。世界中で古くから、さんざん擦られたテーマ。つくりごとは、繰り言でもある。再創造。リライト。やりなおし。ぐるぐる。


にゃん