見出し画像

【短編】9x

 小学五年生の頃に「ろくでなしブルース」という漫画が流行った。月曜日発売の週刊少年ジャンプに連載されていて、翌日の火曜日ともなればしきりに「読んだか?」とクラスが騒がしい。
 その作品に登場人物の初体験の話が掲載された。俺は土曜日に早売りをする店で買い、一読してこれは読まなかったことにしようと決めた。思春期という、心と肉体の変化に居心地の悪さを感じていた俺たちは、性に関する事柄すべてに知らぬ振りを通していた。急速に肥大してきたむずがゆい下半身の要求に対して、俺たちは為す術をしらなかったのだ。
 明けて火曜日、思った通りクラスも皆「まだ読んでない」と答えた。没個性こそ教室の処世術だった。翌週になれば何事もなく、またこの漫画の話題でクラスが沸きたつのだろう。
 しかし彼は違った。悪戯の過ぎる、一日に一度は先生から叱られる存在だった彼。彼は読んだことを隠そうとはしなかった。彼に聞かれ俺も「読んでない」と返答すると、彼はまるでこの世の欺瞞すべてに唾吐くようにして、言った。
「皆、喋らない。そうして、無かったことにしやがる」
 俺は彼に恐怖していた。学校だけでなく、彼とは放課後の学習塾でも一緒だった。やはり彼は塾でもその話題を取りあげた。学校も塾も人種は変わらない。彼は学校でそうだったように、皆に疎まれるかと思われた。
 しかし、一人の少女だけが「読んだ」と答えた。彼女はその塾で一番に可愛らしい、誰からも注目される少女だった。その彼女と彼が、陽気な調子で話をしている。俺は、別世界の二人に強烈な羨望を覚えた。まわりの皆だって、きっとそうに違いない。
 けれど帰りに塾の駐輪場で彼女と偶然出会った時だった。空のアルミニウム缶の底に沈められたかのように静かな夜。彼女は、俺に尋ねた。
「本当は読んだんでしょ?」
「ああ、読んだよ」
 俺は彼女と同じ世界に行けるのだと期待していた。すると彼女は俺の右手をいきなり掴み、制止する間もなく自分の柔らかな左胸に押しあててきた。彼女の、小学生のくせに、大きい、大きい、胸。

 今になれば、彼も彼女も単に好奇心の強い人間だっただけなのだと考えることができる。世間の虚偽を暴こうなどという気概が、あったわけではない。それを証明するかのように、彼女は現在浮沈激しい芸能界にいて、嘘か本当か分からぬ笑顔を振りまきながら乙葉という名で活躍している。
 彼の行方には、残念ながら興味がない。

いただいたサポートは無名人インタビューの活動に使用します!!