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深夜の静かな声(小川国夫「建物の石」)

 毎年、春先から繁忙期に入る勤務先の仕事はいったん夏には落ち着く。だから今月と来月は他の季節よりも有休をとりやすい。明日も休みをもらったので、少し夜更しして映画を一本観たあとに、たまに読む小川国夫のエッセイ集を開いた。

 先週たまたま本棚を整理中に手にとったこの作家の『逸民』を再読したらやはり面白かった。
 読後の走り書きのメモを見ると、こんなふうに書いていた。
「どこか既視感のある筋を追うというよりも、瞬発的なある種の衝動や迷いや熱狂の発火点を掬いつつ、けれどそれらを客観的に見ようとしても距離をうまく保てないような受動的な筆の熱っぽい流れがあって。

 一見過酷で冷淡な物語風の、現実的な事柄に筋が触れてしまう場合でも、状況の救いのなさが教訓的な圧力としては感じられず、言葉は語られるものへと純粋なほどに素朴に寄り添い、拓かれている。そこが好きだなと思う。

 自伝的でも宗教的でもない、伝承や風土のエッセンスをとりいれた種類の作品、たとえば、ある土地の祭りの裏の暗闇を書いた「鷺追い」の重い熱と濃い翳りはやはりいいなあ……と思った。
 書く対象の性質によって言葉の集中や密度が自然と濃くなる文章っていいな……。
 
 醒めていながらじつは醒めきっていないことを諦めとも不穏とも思わず、ただそれをその状態のままで言葉の上に置いておく、という書き方がいいなと」

 ここ数日、なぜまだ詩を書いているのかな……と考えていた。それは外側からの依頼に応じて作品を提出すること=書くという意味で、ではなく。
 どうしてまだやりたい、詩誌も作りたい、と思うのかな……と。
 いろいろと思うことはあるけれど、一番の理由はやはり、「まだ書けていないものが多くあるから」なのかなと。

 わたしはどちらかというと、日本の近代詩やフランスの象徴主義の詩人たちを知ることによって本格的に詩を書いてみたい、と思ったこともあり。
 読み、書きはじめた頃から、いま書かれている詩や状況を無理に好きにならなくてもいいと思っている。それが自分の好みで、性質だから、と。

 周りがどうであれ、わたしにはいつか自分でも書いてみたい、実現してみたいという種類の詩があり、これからはそれに少しでも近づけるような道を辿っていきたいなと、改めて思っている。

 依頼原稿は、締め切りまであまり時間がないという制限もあり、上記の道の上から外れた、個別の作品を仕上げることのほうが多い気がする(もちろん毎回、できるだけよい作品を提出しようとすることは前提として)。

 秋発行の詩誌「アンリエット」に載せる詩は書いたので、これからは、外側からの依頼や締め切りとは関係なく、自分のいつか実現したい地点を目指して、いろんな絵の具の色や筆を試すように、作品を少し書いてみたいと思う。

 寝る前に、いま、開いていた小川国夫のエッセイ集『一房の葡萄』から、くり返し読む箇所を引用したい。

 私どもが文章に大きな力を発揮させようと望むなら、あまり多くのものをそれに担わせては駄目です。大きな荷物を背負って、文章は衰弱してしまいます。作文とは、日本語本来の性質を見抜くための努力ともいえます。その作業に逃げないで従事するということでしょう。

「インタビュー」より

 声を大にする必要を、私は感じなかった。静かな声こそ細大もらさずに聞いてもらえるのであって、声高く語りかけるのは不安の証拠でもあるし、大事な要素を犠牲にしてしまうと思えた。セザンヌが曇り日には物の形が明確に見えるといったのは、意味あることに感じられた。
 たとえ物凄いものを見たとしても、物凄い声で語る必要はない。正確に語ることが必要だ。日本語の豊かさは、その中から一つの言葉を選ぶためのものだ。

「建物の石」より


 「正確に語ることが必要だ。日本語の豊かさは、その中から一つの言葉を選ぶためのものだ」。
 この線上を、わたしもできるだけ辿りたいと、明日、目覚めても思いたい。

 一人の人の時間は有限だし、明日何が起きるかわからない世界に、日々、生きている。
 そう考えたら、周りを気にして迷っている暇はないのでは……とも思う。