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ここにはない雨音について(西脇順三郎「雨」)

 真夏の連休は山のふもとにある家で、本をひらいたり、料理をしたり、眠ったりし、あとはときどき降る雨の音を聞いていた。
 東京都内で強い雨がつづくと、すぐに電車の状況を調べたり、さまざまな場所で働く知人たちのことを思ったりと。純粋に雨粒を眺めたり、その音を聞く余裕もなく、雨が暮らしにもたらす影響へと、心はせわしなく向かう。

 しかしふだんの暮らしから少し離れた場所で過ごす数日のうちに。雨音を聞くことができた。聞きながら、留守番の家のなかでひとり、降りつづく雨を聞くのが昔から好きだったことを思い出した。

 夏の濃い緑のうえで弾む、降りはじめの音。その音はいつもめずらしい鈴音のように軽やかに耳に届く。そして、ぽつぽつ、というまばらな響きがしだいに一定のリズムを保ちながら、葉をすべり花びらや木蔭をゆっくりと濡らす穏やかな音へと変われば、耳の内と外は静けさに満たされる。その静寂のなかでだけ聞こえる遠い風や虫の音もある。
 
 今日は出かけなくていい。つまりだれかに会わなくていい。そう思える安堵の時間を、休みの日、とわたしは幼い頃から読みかえていたと思う。
 雨はほんとうは安らかな気持ちとつながっていた。そして親しみとも。

 その親しみは、この瞬間の、この一時の雨音をわたしが忘れてしまえば、通り雨などなかったことになるのかもしれない、という気持ちからくる親しさかもしれない。
 それは、わたしが忘れてしまえば、いなくなってしまえば、わたしのなかに残る、もうこの世にいない人の、笑顔やつぶやきやしぐさもともに消滅してしまう……という儚さゆえの愛おしさに似た親しみかもしれない。

 わたしは昔から、追悼文と呼ばれる文章を読むのが苦手で、書き出しを読むとたいていはとばしてしまう。
 それは、個人的な過去の一時の親交や親愛が記されることで、亡くなった人のほんの一部でしかない何かが文字のうえに固定され、それを大勢の人が「その人」のイメージや現実としてとらえてしまうのでは、と感じることが多いからだろうか。

 そうした種類の文章を書くことは、書き手自身の思いや人の遺志を改めて確認するための大切な仕事の一つであることは、もちろん認めつつも……。
 深い愛情や親しみを秘めていたら、その人が亡くなってそれほど経たないうちに、整った文章によって、その人を「過去」として語ることなどできないはずでは……とも、ときどき感じてしまう。

 だれかの一部が語られることによって、その文章を読んだわたし自身が大切な人を少しでも愛おしく思える……そんな文章なら読んでみたいとは思うのだけれど。
 ここにいないだれかを「過去」へと送らずに、書き手とともに生きつづける「現在」として記すことは案外難しいことなのかもしれない。

 そしてもし、刻一刻と消えてゆくこの雨音について、詩に書いたとして。それは、書き手個人の一時の「過去」の雨でしかなく、「わたしにはまったく関係のないこと」と思われたら、それまで、の作品なのだろうとも感じる。
 
 言い換えれば、わたしはたとえ個人的な記憶や感情をモチーフにしたとしても、読む人がそれをその人自身の「何か」として、かすかにでも感じてくれたらいいなと思う。そう感じてくれる、未知の数人に届けばいいな……とも。

 わたしが忘れたら、だれも覚えていない、そんな雨音についてどう書こうか……。そんなことをぼんやりと考えていた雨あがりに。
 大好きな、永遠の「雨」の詩を一篇、ここに置きながら。



               西脇順三郎

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

『Ambarvalia』より