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わたしの投稿時代のこと

 2023年6月号から始まった「現代詩手帖」の選考委員の仕事も無事に終わり、いま、最後の対談合評のテープ起こしの原稿を確認しているところ。
 人の詩を読み、選ぶという作業は、自分にとっての詩とは何かを改めて考える時間でもあり、選びながらつねに自問していました。ほんとうによい経験だったと感じています。
 投稿してくださったみなさまと、わたしにはない鋭く柔軟な視点で作品の良さを引き出し、冷静かつ温かい選評をいつも書かれていた山田亮太さん、そして毎月的確かつ迅速にサポートしてくださった編集のTさんや編集長には心から感謝しています。
 現代詩手帖賞の選考の経過は、4月末発売の「現代詩手帖」に掲載されるので、そのときにまたお知らせしたいと思います。

 今日は、自分自身の「投稿時代」について、以前、表参道のスパイラルで開かれた「詩の教室」で話した内容をここに記しておきたいと思います。
(「詩の教室」の一回分の前半部分にあたります)

 話したことを文字にしたのでとても長い……のですが。
 直接お会いしたり話したりはできないけれど、ときどきこのnoteを訪れてくださる方に話しかけるように、ここに置いておくことにしました。
 よろしければ、ご覧ください。

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 さて、今日は最初に、わたしがどんなふうに詩を書き始めて、現在まで書いてきたのか、投稿時代のことを中心にお話ししたいと思います。
 
・投稿時代
・詩がなかなか書けなかったときのこと。

 
 みなさんのなかには、「現代詩手帖」など詩の雑誌に投稿をしてみたい、とか、いつか自分の詩集を出したい、と思っていらっしゃる方もいるかと思います。
 ですので、単なる一個人の経験でしかないのですが、何か参考になればと思いまして。わたし自身がどんなふうに詩を書くようになったのか、詩を続けてきたのか、について少し詳しく、お話ししたいと思います。

 この講座の第一回目のときにもお話ししましたが、わたしは小学生の頃に詩に興味を持ちました。
 日常に周りで話されている言葉に対して、いつも何か空々しいものを感じていたのですが、それとは違って、詩というのは、どんどんと流れてゆかず、わたしのそばに留まってくれて、わたしに話しかけてくれているような言葉だな、と思ったんですね。
 それで、こんな言葉に返事を書くように、わたしも詩というものをいつか書いてみたい、と思うようになったわけです。

 中学から高校の頃は、とくに教科書に載っているような有名な詩人の、谷川俊太郎や茨木のり子、川崎洋を読んだり、萩原朔太郎や北原白秋の詩にとくに惹かれたり、古本屋で田村隆一の詩に出会って衝撃を受けたりしていました。その頃、隣町の図書館に「現代詩手帖」があると知って、休みの日にはバスに乗って、眺めに行ったりしていました。

 それで、誰にも言わないでひっそりとひとりで、詩のようなものを書くようになりました。そして高校生の時に、クラスの友人が「MOE」という雑誌を貸してくれたんですね。
 これは、絵本や児童文学の世界を特集している、いまもある雑誌ですけれども。その後ろのほうに、詩の投稿欄があったんです。
 それで、詩の選者は、「川崎洋」と書いてあった。
 「え~! あの読んだことのある詩人が選んでくれるんだ!!」とびっくりし、興奮したわけです(笑)。
 この詩人って図書館にある本のなかだけでなくて、こんなふうにほんとうに存在していたんだ~、というような驚きですよね。

 ちなみに、川崎洋さんについて少しご紹介しますと、1930年生まれの詩人で、「自分の感受性ぐらい、自分で守れ、ばかものよ、」という鮮烈な詩で有名な茨木のり子さんと同人誌「櫂」を1953年に立ち上げた詩人です。
 この「櫂」という詩のグループには、谷川俊太郎や大岡信、吉野弘など有名な詩人がごろごろといて、それぞれの「感受性」(と当時呼ばれていたもの)を軸にして、豊かな抒情詩の世界を描いていました。
 この「櫂」の詩人たちは、戦後の1950年代の詩を語るのにかかせない詩人たちです。

 川崎洋さんが、どんな詩を書かれたか、例として短い一篇をご紹介します。
「鉛の塀」という詩です。
 
言葉は
言葉に生まれてこなければよかった

言葉で思っている
そそり立つ鉛の塀に生まれたかった
と思っている
そして
そのあとで
言葉でない溜息を一つする

 
 日々移ろい続けたり、伝わるようで伝わらないじつは頼りない言葉というものは、ほんとうは鉛の塀のようにゆるぎなく存在したいんだけれど、そうもいかない、というような詩でしょうか。
 言葉自身も言葉で考えたり、思ったりはするけれども。ほんとうは言葉で言えたり、思ったりすることは怪しい、という意味にも読めますし。
 言葉が、言葉でない溜息をもらす、というのが面白いですね。

 誰にでもわかる言葉で書かれてはいますが、自分の好きなように深く読める詩です。そんな川崎さんの詩が、高校生のわたしはとても好きだったわけです。

 それで、つねづね、「自分の書いているものは、詩って言えるのかなあ~?」と疑問に思っていたんですけれども。思い切って、それをこの詩人に送って、確かめてみたくなったわけです。
 それこそ大きな海に一つの壜を流すように投稿してみたんです。それで送ったあとは、いつ発表なのかもよくわからないまま過ごしていたんです。

 そうしたらある日のこと。いまもその日の光景がはっきりと目に浮かぶんですけれども。それは、学校が休みだった、たぶん暖かな、うららかな日だったと思うんですが、庭に面した窓を開け放って過ごしていたんですね。
 そうしたら、郵便屋さんの赤い自転車が近づいてくるのが見えたんです。すると、郵便屋さんが、庭に入ってきて、「峯澤さ~ん、典子さんに、速達です」と言ったんです。
 「え?わたしに速達?」ってほんとうに驚いたわけです。「手紙なんてどこから?」という感じで。

 すると、差出人は、東京の「MOE」編集部、とあって。びっくりして、その場で急いで封をちぎってなかを見ると、「あなたの詩が、投稿欄で入選しました、つきましては一言コメントをお送りください」とあったんですね。
 そのコーナーは当時、入選した人の一言コメントも載るようになっていたわけです。ほんとうにびっくりしました。

 わたしが一つの壜に入れて海に流したものは、言葉として読めるものなのだろうか?と疑問に思っていたら、ほんとうにそれを拾って読んでくれて、返事をくれた人がいたわけです。
 はじめて、自分の言葉がほんとうに、誰かに届いたんだ……!!と。
 もう、夢を見ているような気分でした。

 そのときに、返事を運んできた郵便屋さんの赤い自転車と、「峯澤さ~ん、速達です」という声は、いまもまだ心のなかに残っていて、その午後の明るい陽射しが、自分の詩をいまもずっと照らしてくれている、と思うんですね。
 川崎洋さんが返事をくれたその瞬間から、今日のこの瞬間まで、一日たりとも、詩のことを考えずに過ごした日はない、と思います。

 でも、その後、順調にどんどん詩が書けていたわけではないんです。というより、詩が書けるかな、と思えるまで、たいぶ遠回りしました。
 高校を卒業して大学生になってからも、詩を書きたいという気持ちはいつもあったんですが、ほかの詩人の詩をいろいろと読むようになると、その分、自分の詩がひどく拙いものに見えてきたんですね。

 自分が納得いくものがあまり書けなくなってしまって、明らかに誰かの表面的な真似でしかなかったり。言葉を生き生きと動かす方法がさっぱりわからなかったんです。
 詩の雑誌に投稿して、何回か採ってもらってはいたものの、投稿もさほど続きませんでした。自分の詩なのに、人が採ってくれたとしても、いつも自分ではしっくりこない、という感じでした。

 そんなとき、大学で出会った友人が短歌の同人誌をやろうと誘ってくれたんですね。
 短歌をずっと続けるかどうかはわからないけれど、詩をいつか書くために、57577という定型に言葉をあてはめてゆくのも、言葉の訓練になるかな……と思ったんですね。

 そのとき、詩をやみくもに、とにかく書こうとしても、言葉が自由に動かなくて、固くなっているのを感じました。だから、いったん、詩を書くことから少し離れて、詩を書くことにばかり集中しないで、ほかの言葉の創作の世界を覗いてみるのもいいかな……と思ったんです。

 なので、みなさんも、もし詩の表現に広がりがないな、いつも同じような表現になってしまっているな、というときは、短歌や俳句や小説、あとは漫画や映画や演劇の台詞など、ほかの創作の世界の言葉に触れてみるのも、いい刺激になると思います。
 何よりも、さまざまな言葉の表現の方法を知ることができますよね。

 自分が納得する詩を書くためには、「急がば回れ」という気持ちでした。自分の痩せた、固く縮こまった言葉に何か刺激や栄養を与えてみよう、と思ったんです。
 それで、大学時代は、詩は読み続けてはいたんですが、そのほかに、ヨーロッパの映画や古い日本映画を見たり、小説を読んだり、フランス語を勉強したり、主に短歌を作ることに集中しました。

 4年間という間だけでしたが、短歌を作ることから学んだことはたくさんあります。短い文字数でどんなふうに心情や情景を切り取り、深めてゆくのか、イメージをどう重ねてゆくのか、どうやって的確な言葉を探すか、など、ですね。
 短歌を作ることを繰り返すうちに、自分の詩の言葉も少し変わった気がしました。
 具体的には、一連を書くときの言葉や息の続け方とか、リズムとか、比喩の使い方だとか。だらだらと書かずに、端的に表現するやり方とか、五感の響き合いとか……。
 そんな点で、変化を少しだけ感じたわけです。
 
 そんなふうに学生の頃は過ぎてゆきました。そして、社会人になってからは、広告の制作と雑誌の編集の仕事を主にしていたんですけれども、仕事をおぼえるのに必死で、詩を書く時間をなかなかとれない状況が続きました。 

 つまり、深夜遅くまで仕事をしてご飯を食べて寝る、という日々の繰り返しです。会社員のなかには、そういう方も多いと思うんですが。

 当時、「現代詩手帖」で、自分の好きな詩人の池井昌樹さんが選者をされていたときはなんとか投稿してみようと、思ったのですが。
 ちょうど仕事が大変な時期に重なっていて、投稿も数回で力尽きて、終わってしまいました。でもその時に池井さんからいただいた言葉は、いまでもずっと覚えています。

 いまからふりかえると、そういう、生活を必死に送っているときも、詩を書くための「種」のようなものは育っていて。どんな仕事の経験も、生活の経験も、物事をどう見るか、この世界をどうとらえるか、という、詩を書くときの土台を作っていると思うんです。

 詩を書く、というのは、原稿用紙とかパソコンに向かっているときだけが、詩を書いている、ということではなくて、生活することもまた、詩を書くことの一部なんだと、わたしは思うんです。
 書いていないときも、詩を書くための土壌を耕しているし、目には見えない言葉を身体のなかに無意識のうちにためているんだと思います。
 詩は、書いていないときにも書いているんだ、と思います。

 いま思えば、どんな経験も詩を作るときにはいかされると思っています。読んだ本、見た映画、絵画、旅した場所、そして出会ってきた人たちと過ごした日々、交わした会話など、すべてが詩を支えてくれている、と思います。
 なので、「書けない」という時でも、焦ったり、暗く沈んだりしないで、その暮らしを精いっぱい生きてゆくのも、詩の一部なんだ、と思うと、いいのかなとは思っています。
 
 一見、言葉に関する仕事でなくても、その人の価値観や世界観を作る、という意味では、どんな仕事も詩につながっている、と思うんですね。
 それで、わたしの場合は、広告や雑誌を作ることを通して、一つの商品をどの部分から眺めるかとか、どうアピールしたら人により伝わるのか、とか。同じ商品を説明するのに10通り、100通りの言い方を考えてみるとか、そんな、言葉の訓練をしていたと思うんです。

 そのとき意識していた、ひとつのものをじっと見つめることとか、しっくりくるまで何度でも表現を変えてみるとか、たくさんの形容詞のなかから一つを選ぶ、という仕事の経験は、いま、詩を書くうえでも役立っているとは思います。
 
 とはいっても、広告や雑誌を作るという仕事は、何万人という人たちに向けて言葉を発信する仕事です。
 できるだけ多くの人を引き付けて、できればその人たちに何かを買ってもらう、というのが広告や情報誌の役割です。
 けれども、毎日毎日、消費される商品としての言葉を追いかけて、情報に追われる生活をしているうちに、数万人という、消費者に向かって書いたわたしの文章というのは、「もしかすると、誰一人にとっても、ほんとうに切実な、必要な表現には、なっていないのではないか……」とも思うようになったんですね。

 そう感じながらも、仕事の文章を一生懸命書き続けるうちに、自分のなかに、もう一つの、別の種類の言葉が溜まっていることに気づきました。
 そのだんだんと心の底に溜まっていった言葉というのは、遠くへ流通もしないし、大量に消費されることもない。
 でも、この身体の芯の部分を、生まれたときからずっと支えてくれている、どこか不器用で武骨な言葉なんですね。
 「あ、これが、詩?というものなのかもしれないな」と改めて、そのとき感じたんです。
 
 これはとくに、コピーライターとか編集とか翻訳などの、言葉に関係する仕事をしていなくても、どんな職種の仕事でも、どんな家庭の中の仕事でもそうだと思うんですが。
 お金を稼ぐためとか、ほかの人といかにうまく付き合ってゆくか、といった社会的な、対外的なコミュニケーションを重んじる生活を繰り返してゆくと、そんな生活のなかでは、なかなか外に出せなくて自分のなかに溜まってゆく言葉ってあると思うんです。

 「日の目を見ない言葉」というか、ふだん使われない言葉、遠くへと流通しない言葉、消費されない言葉というのが。
 でも、そういう不器用な言葉こそが、生まれたときから、自分といつも、ずっと一緒にいてくれた言葉なんですよね。
 ずっと、いつも、ここにいてくれて、自分の本音をいつも聞いてくれていた言葉というか。でも、それはすぐには口には出せない、外に出ていかない言葉であって。

 そういう不器用な言葉というのが、もしかしたら、自分にとっては「詩」というものかもしれないな、と。
 社会人経験を10年ほど重ねた頃にやっと気づいた、実感としてわかったわけです。
 それで、「今度こそ、その言葉を外に出してみようかな」と思ったんですね。
 
 そうだ、今度は、多くの人に向けてではなく、たったひとりの読者に向けて、詩の投稿欄の選者に向けて書こう……と思いました。高校生のとき、川崎洋さんに向かって、一つの手紙を流したように、です。

 ちょうどその時、偶然にも、もっとも好きな詩人の一人でもある、松浦寿輝さんが20年ぶりに「ユリイカ」という雑誌の詩の選者をされていることを知ったんですね。ほんとうに、偶然に久しぶりにユリイカを手に取って、それを知ったんです。
 「え!! 嘘? あの松浦さんが選者!?」という感じで(笑)。

 松浦寿輝さんのことをご存じない方のために、少しご紹介しますと、松浦さんは1954年生まれの詩人であり、芥川賞作家であり、フランス文学者でもあり、評論家としても、本をたくさん書かれている方です。
 よく知られている小説は、たぶんこの『川の光』だと思うんですが。これは、ネズミの兄弟が、都会の川をさかのぼりながら、自分たちの居場所を探す、という冒険小説で、アニメにもなっていました。
 のちほど、後半に、松浦さんの詩作品もご紹介したいと思います。
 
 わたしは大学生時代に松浦さんの書かれた本や詩集を読んで、その言葉の美しさや的確さに、すっかり魅了されていたんですね。
 それで、もっとも好きな詩人の一人が詩の選者をされていると知って、「ああ、これは、いよいよ詩を書く時が、タイミングが来たのかなあ…」と思いました。
 「いま書かなくて、いつやるの? いまでしょ!!」という感じです(笑)。そして、仕事が終わってから、深夜に詩を書き始めました。
 
 毎月の投稿の締め切りを目指して、もうひたすらに、書いては消し、消しては書き、を繰り返したわけです。
 そうした熱っぽさというか、執念というか、ある種の怨念(笑)みたいなものが届いたからか……?
 投稿を始めて約一年後には、ユリイカの新人という、いわば詩の投稿欄の新人賞をいただくことになって。それが現在につながっている、というわけです。
 
 わたしも経験しましたが、投稿欄という場所は、必ず読んでくれる選者がいますので、書くときの励みにはなると思うんですね。
 いま、いきなり自分の詩を、詩人の住所に送っても、読んでもらえるかどうかはわからないですよね。でも投稿欄だと、確実に詩の優れた書き手に読んでもらえます。

 とくに、尊敬する、好きな詩人が選者の場合、変なものは送れないな、と思うし。緊張感がある。
 投稿欄は、人に作品を見せる、読まれる、ということを最初に意識する場だとは思うんです。

 でも、投稿するときに大切だな、と思ったのは、選者の好みに合わせて書いたり、投稿欄の常連の人の作風を真似て書いたりしない、ということです。
 人に気に入られようとして、付け焼刃で、表面的な装いというか、表現を変えてしまうと、自分の言葉の中心が揺らいでしまって、言葉はよけいに混乱すると思うんです。

 一時的に人に好かれようとして自分の言葉の見た目を変えても、それは、自分に似合わない薄っぺらいものでしかないし、長続きしないと思います。
 だから、逆にいうと、投稿している間には、選者の詩集や、いろんな人が投稿した作品を読みながら、自分にしっくりくる表現を探すことや、自分の言葉の芯になるものを見付けることのほうが大事だと思います。

 「絶対に選ばれなくてはならない!」と窮屈に思うよりも、そういう新しい詩との出会いの場として、投稿欄をとらえるほうが、気も楽ですし、長続きします。
 もし投稿という方法は自分にはあっていないなと思えば、別のやり方を探せばいいと思います。
 自分らしく長く書いていれば、必ず共鳴してくれる人が現れると思いますし、もしすぐには現れなくても、自分自身が納得する一行が書けたときには、何よりも詩を書く喜びが持続します。

 「詩を書く」という純粋な喜びをなくさない、というのが、長く書き続けるコツかな、と思います。
 人の評価がどうしても気になってしまうときには、いったん、落ち着いて、「なんのために、自分は詩を書こうと思ったのか」を思い出す。

 そういう原点に戻ると、自分の言葉も、進んでゆく方向もクリアに見えてくると思います。「なぜ、自分は詩を書くのか」。それは面白い言葉に出会いたいから、とか、未知の自分を探りたいから、とか、孤独な自分を支えるためとか、もう会えない誰かに手紙を書くように書いてみたい、など……。
 人それぞれの、いろんな詩を書く動機や原動力がきっとあるはずですよね。

 そういう詩を書く原点に戻ると、人の評価よりも大切にするものが見えてくるのかな、と感じます。それは、わたしもいつも気を付けていることです。
 誰かが自分の書いたものを「いいね」と言ってくれたら、それはとてもうれしいし、素敵なことですが、人に認められることを書く一番の目的にしてしまうと、自分の創作に主体性がなくなってしまって、どんどん言葉が委縮してしまう。
 自由に書くことができなくなってしまうかもしれないと感じます。そうすると書き続けるのもだんだんと辛くなってしまうのかなと。

 人の評価は案外、気まぐれです。でも、いつも、ずっと、自分だけは、自分の一番の読者であり、応援する人になれます。自分だけは、自分の詩のずっと味方で、いていただけたらな、と思います。
 
  人に認めてもらうことより、自分が理想とする詩のかたちを実現するほうが大切だな、と、いまのわたしは考えています。
 逆に言うと、自分が理想とする文章を実現せずに死にたくないな、という思いが、いつも遠くの希望としてあります。
 
 さて、そんなふうにしてわたしが、松浦寿輝さんにユリイカで新人に選んでもらったのは33歳のときですから、高校生のとき、川崎洋さんにはじめて詩を選んでいただいたときから数えると、もう、17年という、それこそ、一人の赤ちゃんが高校生になるくらいの長い月日が流れていたわけです。

 どうやって書いていいのかわからないけれど、とにかく詩というものが書きたい、と、高校生のときは、朝と夜の通学のバスのなかで、毎日、思ってきました。
 そして、そんな「どうやって書けばいいかわからない、でも、わたしは、詩を書きたいんだ」という思いは、いまもずっと続いています。

 いまも、完全に納得のいく詩が書けているとは思いませんし、すべてが、坂道の途中、途上、だと思っています。
 でも、納得いくものになかなか辿りつかないからこそ、詩を書くというのは面白いし、ずっと続けられる、と思っています。

 いまも、手探りで、ときどき立ち止まりながら、それでも、詩のほうへと、詩のほうへと歩いています。こうして歩いていったずっと先には、あの高校生のときの、郵便が届いた日のような、明るい光が差しているような気もしているんです。
 
 もし、いま、満足いく詩がなかなか書けないという方も、あきらめないで続けていただきたいと思います。
 たとえば、外国語を習ったことのある方はおわかりになると思いますが、外国語の習得も、毎日リスニングをして、辞書を引きながら文章を少しずつ読んで、コツコツと単語を増やして、とやっているうちに、ある時に、すっと目と耳に外国語が意味として入ってくる瞬間がありますよね。
 目や耳のなかを綺麗な水が流れるように、言葉が突然、入ってくる。

 楽器の練習とか、絵の上達などもそういう瞬間ってありますよね。
そんなふうに、コツコツと机に向かって、ああでもない、こうでもない、とやっているうちに、昨日までの空気がさっと変わるように、詩の言葉が自分に近づいてくれる、そんな瞬間がきっと来ると思います。

 わたしも、詩がなかなか書けなくて、長い間、その周辺をうろうろとしながら、言葉の寄り道のような経験を重ねてきました。
 そして、「いま、書かなくては」という時が来たとき、自分らしい言葉がやっと、文字になってくれたのかな、という感覚があります。

 詩は一度好きになったら、書けないときも、書く人を待っていてくれるものだと思います。だから、焦らなくても大丈夫、な気がします。
 
 詩人と呼ばれる人たちはみんな、それぞれの詩の通り道があり、詩へのアプローチの方法があると思います。
 いまは、「現代詩手帖」や「ユリイカ」などの雑誌に投稿する以外にも、自分で詩の冊子をつくって文学フリマと呼ばれる販売会でお客さんに直接売ったり、ブログやツイッターなどで作品を発表している方もいますし。
 ポエトリーリーディングのイベントに出ることに力をいれている方もいますよね。詩人が主催する詩の教室で、真摯に学んでいる方もいます。

 なので、詩を書く方法や活動の仕方は、ひと昔前に比べて、さまざまにあると思います。
 自分にとって長く続けられそうな、無理のない方法を探す、そしていろいろと自由にやってみる、というのも大切ではないでしょうか。
 一人ひとりにふさわしい方法があると思います。
 
と、ここまで、わたし自身の投稿時代についてお話ししました。
 何かご参考になれば嬉しいです。