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夢って

今まで大学生の思想と称してエッセイまがいのようなものを出してきたが今日はちゃんとエッセイ風に書こうと思ったのだが、何を書こうと思い少し逡巡した。そこで僕の事を少し見つめなおすと将来のことを何も考えてないなと思いこれを題材にでもしようかなと思ったので、今日は夢について僕が思うことでも書こうと思う。

僕は小学生から今まで将来の夢というのを身近に感じた事がない。これは斜に構えていた訳でも、なければ現実的な方でもなかった。ただ自分の未来像が描けなかっただけだ。

僕は夢というのは想像力が豊かではなければ、また自分と見つめあえなければ出てこない。そんな風に感じていた。でも最近は少し違う風に感じる。夢は自分で見つけるのではなく与えられるものではないだろうか。

僕たちは人がかかわる社会の中で相互的に干渉しあっている。人は一人では生きていけないのだから。でもそういった関りというのは自分の思考に少なからず外部の影響を受け入れることと同義といえる。加えて学校に行けば夢を持て、将来について考えろと言われる。そもそも人間に未来なんて読めないのに10年後の未来を想像しろなんて言われてもなんて思うのは僕だけじゃないだろう。

また僕らが考えなければいけない夢は社会で認められている夢じゃなければならない。例えば僕が先生に神になりたいと言っても苦い顔をされるだけだ。(実際に新興宗教の教祖にでもなれば神にはなれるだろうが)つまり僕たちは限られた選択肢の中から”夢”を選らばなければならない。

そして僕たちは人の期待に応えたくなってしまう。となれば自分本位で決めたと思っていても他人の影がちらついている。例えば僕が研究者になりたいと思うとする。でもそれは本当は研究者になりたいんじゃなくて。「あんな人になりたいから研究者を目指す」といったものかもしれない。まあこの「あんな人になりたいが夢かもしれないが」これも結局自分で自分の将来を決めるというよりも他人が影響した、所謂ギフトみたいなものだ。その人に出会えなければ夢には出会えていない。云わば夢と出会ったみたいなものだ。これを自分で見つけたとは言い難い。夢から自分の方へ来たというほうが正しいだろう。

先ほどの話にも付随するがどうして小学校などでは将来の夢と職業が一緒くたになるのか。先ほど言ったようにあんな人になりたいというのも立派な夢だが、そのためにはその人と同じ職業に就かないといけないというような風潮がないだろうか。実際その人と職業は関係ない。なのに学校は夢=職業のような考えを持ってしまっているように感じる。この考えが僕たちが夢を考えるのを難しくしてはいないだろうか。だから僕たちは本心とは違う道や違う夢を平気で人前でいえてしまう。これは本当に”夢”なんだろうか。

僕は夢を持てない自分を卑下するつもりも、正当化するつもりもない。むしろ夢は持つべきだと思っている。夢は生きる活力になりえるものだからだ。しかし夢は持てなくてもいい。何故なら夢は見つけるものではなく与えられるものだから。もし今やりたいことがないと思っても悪い事じゃない。ただまだ時期じゃないだけだ。それでも一つだけやっておかないといけないことがある、それは心の整理整頓だ。これが出来ていなければ、来るものもやってこない。人を自分の部屋に呼ぶときは部屋を綺麗にしておく、これと一緒だ。思考を整理して後は気長に待つ。これが夢を見つける近道じゃないだろうか。焦って見つける夢はきっと長続きしないと思う。

それに僕は過去の自分と今の自分は繋がっていても同一人物じゃないと思っている。だってあの頃嫌いだったオクラも今なら食べられるんだから。夢も一緒だ。昔抱いた夢を持ち続ける必要はない。何故なら人は変わっていくから。なら僕らは焦って夢を探す必要はないんじゃないか。人はその瞬間に生きている。ならばその時本当にやりたいことが一種の夢であり、その積み重ねが本当の夢に出会う入り口になるんじゃないだろうか。

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