12 星の紛れ
あの日のことは良く覚えている。
冬から春に変わる途中で、道端のフキノトウが顔を出していたこと。
星がにじんではっきり見えなかったこと。
そして、自分の魂を売ったこと……。
「爺ちゃん、一人で留守番してて大丈夫?」
クリスマスマーケットの日、モーリッツは椅子に座りながら木のおもちゃを作っていた。
元々モーリッツはトーマスのように木を切ったり加工したりして生計を立てていたのだが歳を取ってからはその仕事をトーマスに譲り、気が向いたときに子供達のおもちゃを作るぐらいのゆったりとした生活を送っている。それでもこの村で暮らすぐらいなら生活に困ることはない。
「いいからワシのことは気にせんで、楽しんでおいで」
モーリッツはヤスリをかけていた手を止め、冷めかけた紅茶に手を伸ばした。今作っているのはペーターにねだられているリーザへのクリスマスプレゼント用のままごとの食器類だ。最近ペーターはリーザと親しくしている旅人のニコラスをライバル視しているのか、時々「リーザが遊んでくれない」と涙ぐみながら帰ってくることもしばしばだ。だから今日はリーザと一緒なのが嬉しいらしく、ペーターは少しそわそわしている。
「ほれペーター、あまりのんびりしておると待ち合わせに遅れてしまうぞ」
「あ、本当だ。爺ちゃんにも、ちゃんとお土産買ってくるね」
「そうかそうか、楽しみにしてるからの」
ペーターと二人暮らしになったのは、四年前村に病が流行ってペーターの両親が亡くなってからだ。色々と苦労もあるが、それでもペーターがすくすくと成長しているのを見るのがモーリッツの楽しみの一つである。願わくばそれをずっと見続けたいと思っているのだが。
マフラーを巻いて出かけようとしたペーターの頭をモーリッツは優しく撫でた。
「ディーターや神父さんに迷惑をかけんようにな。あとリーザと仲良くの」
そうするとペーターがにこっと笑ってモーリッツの手を握る。
「うん。爺ちゃんも今日は寒いから腰冷やさないでね。パメラ姉ちゃんがくれた膝掛けちゃんとかけててね。じゃあ行ってきまーす」
後ろをちらちらと振り返りながら走っていくペーターを、モーリッツは微笑みながら見つめていた。だが、ペーターの姿が見えなくなると、先ほどまでの表情が嘘のような厳しい顔をしてモーリッツは椅子に座り込む。
ペーターは毎日元気に成長している。あの時以来大きな病気も怪我もしていない。きっとこのまま大きくなって、いつかヤコブ達のように立派に独り立ちする日が来るだろう。
「…………」
モーリッツが左腕の袖をまくるとそこには赤い星のような痣があった。それは老いて細く薄くなった皮膚の上に、不自然な血のような色をしてくっきりと浮かび上がる。
それを見るたびに思い浮かぶのは後悔の念。
「ワシは何て事をしてしまったのじゃろう……」
それは二年前の春の事だった。
まだモーリッツの足腰も今ほど弱ってなく、村では買えない物を隣村に買いに行ったりした時のことだったと思う。もしかしたら別の用事だったのかも知れないが、なにぶんその時の印象が強烈すぎて前後に何をしていたのかが思い出せない。
村で留守番をしているペーターに何か珍しい菓子でも買っていこう。そう思ったときだった。
「爺さん、悩み事はないかい?」
声を掛けてきたのは若い女だった。黒髪を横に束ね、異国的な装飾をしている。その中で目立っているのは肘まである長い手袋……おそらくこの村に来ているジプシーの一人なのだろう。
「…………」
モーリッツは最初その声を無視した。ジプシーの中には占いをするなどと持ちかけて、追いはぎに近いようなことをする者もいる。それに悩み事など老いた自分にあるはずもない。
すると女はモーリッツの歩くスピードに合わせ歩きながらそっとこう呟いた。
「あんた孫と二人暮らしなんだ。それはさぞかし可愛いだろうね」
「お前さん、ワシに何を言いたいんじゃ?」
足を止めモーリッツは女を睨み付けた。何も話していないのに、この女は何処で自分のことを調べたのだろう。だが女はただ微笑んでいるだけで、何を考えているかが読みとれない。
「おっと、そんな怖い顔しないでくれないかい? アタシは別に爺さんから金を取ろうとかそういうつもりじゃないんだ。ただ、あんたの悩みを何とか出来ないかと思ってね」
「ワシに悩みなぞないぞ。残念じゃったな」
「いや、あんたが気づいてないだけさ。あんたが恐れていることはあるよ。アタシには分かる」
ゾクッ、と背中に冷たいものが走った。女の言う「恐れていること」に、モーリッツは心当たりがあったからだ。
ペーターの両親は二年前に病で亡くなった。今はモーリッツが孫であるペーターを引き取って育てているが、時々不安になるのだ。
もし自分が死んでしまったら、ペーターは誰が育ててくれるのだろう。
せめてペーターが一人前になるまでは側にいてやりたい。
健康には自信があるつもりでいたが、やはり老いには勝てない。今はこうやって隣村に買い物に来ることも出来るが、いつ足腰が弱ってしまうか分からない。それにまた病が流行ったりしたら今度は自分が罹らないとも限らない。そうなったら、一体どうしたらいいのかを考えると、夜も眠れなくなることがある。
人には寿命がある。ずっと側にいることは出来ないだろう。
だが、せめてペーターが一人前になるまではその成長を見守ってやりたい。
「心当たりがあるようだね、爺さん。とりあえずアタシの話だけ聞いてみないかい? いきなり金を払えとかは言わないから」
モーリッツの表情を読みとったのか、女は小首をかしげて微笑んだ。黒い髪が揺れて、大きな黒い瞳がスッと細くなる。
「お前さんがワシの恐れを何とか出来るとでも言うのか?」
「アタシの話を聞けば分かるよ」
小路を指さす女にモーリッツは頷いた。
神に祈ったとしてもおそらく止められない運命を何とか出来るのだろうか。
今思えば、そこで引き返せば良かったのだ。チャンスはいくらでもあった。だがモーリッツは引き返さなかった。
神が聞き届けない願いを叶えるのは、悪魔しかいないというのに。
女に案内されたのは小さなテントだった。香が焚かれていて見たこともない文字で書かれた魔法陣が奥に貼ってあり、天井から下げられたランプが炎を揺らめかせている。そこだけがまるで東方の異国のような雰囲気だった。
「まあ座りなよ」
モーリッツは勧められた椅子に浅く腰掛けた。女は布のかかった小さな机の上に、不思議な文字で書かれた羊皮紙を差し出す。
「アタシは面倒な話は苦手だから単刀直入に言うよ。もし、爺さんの願いを叶えることが出来るって言ったらどうする?」
あまりにも単刀直入すぎる女の言葉に、モーリッツは一瞬何を言われたのか分からなかった。このジプシーの女が、自分の願いを叶えるなんて一体何を言っているのだろう、正気の沙汰とも思えない。だが女は真剣だった。
「嘘だと思ってるだろ、爺さん。神様なんてね、この世にゃいないんだよ。その証拠にどうだい、皆が祈って寄進をしても何も叶えてくれやしない。いくら祈っても無駄なんだ」
「…………」
確かにそうかも知れない。
神に祈っても死んだ者は生き返らない。息子夫婦が相次いで亡くなり、村が壊滅寸前まで行ったときは神への祈りなど届かないのではと思った。毎日のように人が死に、墓を掘るのが追いつかなくなった時も神は何もしてくれなかった。
沈黙しているモーリッツの心を読んでいるかのように女は話し続ける。
「アタシもずっと神様に祈ってたさ、でも神様はアタシの願いなんか叶えちゃくれなかった。だからアタシは神様を信じるのを止めた。その代わりにアタシの願いを叶えてくれるものを見つけたからね。爺さん、あんたの願いはなんだい?」
「ワシの願いは……ペーターが元気に育って、一人前になるまでそれを見守る事じゃ」
これ以上言ってはいけない。
引き返すならここだ。今ならまだ間に合う。
いや、願いが本当に叶うのなら、悪魔に魂を売ってもいい。
ランプの炎が風もないのに大きく揺れた。女の真っ赤な唇がにいっと笑う。
「爺さんの願いは叶えられるよ。そんなささやかな願いでいいのかい?」
「本当に、ワシの願いが叶うというのか? 神の決めた運命に逆らっても」
女は羊皮紙と羽ペンの入ったインク壺をモーリッツの方に差し出した。
「ああ、本当さ。でもアタシは優しいから忠告しておくよ。代償は爺さんの魂だ。魂を売ってでも叶えたい願いだってならサインするといい。魂を取られたくないなら、まだ引き返せるよ」
「ワシは……」
考えるまでもなかった。老いた自分の魂など惜しくはない。
ペーターが元気に育ちそれを見守ることが出来るなら、何を躊躇うことがあるだろうか。
モーリッツは羽ペンを手に取った。ペン先に付いているインクは血のように赤く不吉な色をしている。このまま迷っていたらきっと契約をしそびれる。モーリッツにはそれが分かっていた。あの日、村人が病で倒れていくのを見ながら神に祈った日々。だが神は何もしてくれはしなかった。行商人が来たのはほぼ村が壊滅寸前になってからで、本当に神がいるのであればもっと早く彼をよこして欲しかった。
そう、行商人が来たのは、息子が亡くなった次の日だったのだ。
女はモーリッツの名前が書かれた羊皮紙を手に取った。
「これで契約は終了だよ。爺さんの魂は悪魔が持ってるから、爺さんが魔物に殺されることはなくなった。人狼や吸血鬼でさえも傷を付けることは出来ない。ただし爺さんがそれに気づくこともないけどね。ああ、流石に人には殺されるよ。悪魔を倒せるのは人間だけだからね。まあ爺さんがそんな事に巻き込まれるようには見えないけど」
「これでペーターは一人前になるまでは安心なのじゃな」
外の喧噪が聞こえないほど静かだった。女の声だけがモーリッツの耳にシンと響く。
「ああ、そうさ。ただ、一つだけ忠告しておくよ」
そういうと、女は占いに使うカードをモーリッツの目の前に出した。それが何のカードかは分からないが、悪魔が人間の首に鎖を付けている絵柄が描かれている。
「魂を見ることの出来る『真実の眼』を持つ者には注意しな。悪魔に魂を預けている者が魂を見られるとその場で死んじまうからね。何か大きな騒ぎがあったら注意しないと、大事な孫が一人前になる前にくたばるよ。努々注意して生きるんだね」
モーリッツはその言葉に黙って頷いた。魂を見ることが出来る者など、自分の住む村にいるとは思えない。それにそんな物を見られるような後ろ暗い生き方もしていない。
これでいい。モーリッツがそう思って無言で椅子から立ち上がったその時だった。
「これで爺さんの孫は元気に一人前になるだろうさ。ただ他の隣人がどうなるか知ったこっちゃないけどね」
「なっ……」
背中を冷たい物が流れた。
確かに自分はペーターの幸せを祈った。だが、その代償は自分の魂だけでまかなえると思っていた。モーリッツは自分の願いのことだけを考えすぎて、悪魔が人間を巧みに騙すことを忘れていたのだ。
「ワシを騙したのか?」
「アタシは言ったはずだよ『まだ引き返せる』って。川を渡ったのは爺さん自身さ。爺さんは自分のことしか考えてなかったのさ。まったく人間ってのは面白い」
アハハハハハ……女が心底愉快そうに笑う。
モーリッツはそのテントを出て、大急ぎで帰路についた。背中に女の声が投げつけられる。
「せいぜい長生きするんだね。自分のために」
左腕がまるで火傷でもしたかのようにズキズキと痛む。冷や汗が止まらない、熱にうかされたように思考が定まらない。
全く自分は女の言う通り愚か者だ。どうして自分のことだけを考えていたのだろう。
自分が本当に望んでいたのは『村の皆が元気に健やかに暮らす』事だったのに。
たとえ自分がペーターより先に死んだとして、村の誰かが大事に育ててくれるはずだ。今までだってそうやって村はやってきた。何故そんな大事なことを忘れていたのか。
「…………」
何処をどうやって帰ったのか覚えてない。
だが、家の側に来たときペーターが家から走って出てきた事は覚えている。
「爺ちゃん、おかえり。僕ちゃんと一人で留守番できたよ」
ぎゅっと自分に抱きつく小さな手。それを見てモーリッツは涙が出そうになった。ペーターがそれに気づいたのか、心配そうな顔をする。
「爺ちゃんどうしたの? どこか痛いところとかあるの?」
「いや、何でもない。何でもないんじゃ」
道端のフキノトウが顔を出していた。見上げた星空がにじんでよく見えなかった。
「…………」
「おかえりなさい、荷物持ってあげるね。僕おなかすいちゃった」
モーリッツが持っていた紙包みをペーターが左手で受け取って、右手でモーリッツの手を繋いだ。その手はとても温かくて、それがモーリッツには余計辛すぎた。
「そうじゃな、レジーナの所に行って夕飯にしようかの」
「うん、早く家に帰ろう!」
左腕に出来た痣はそれから消えることはない。
今のところ村人に危険が及ぶことはなく、皆健やかに暮らしている。だがその平和がいつまで続くか分からない。人狼の噂を行商人から聞いたときに冷や汗が出た。
モーリッツはあの忌まわしい日から日記を付け始めている。ペーターの成長記録、その日のメニュー、そして自分がやったことの後悔の念。
無論そんな物で自分の罪が償えるとは思っていない。ただ、もし村に何かが起こって『真実の眼』を持った者が出てきたときに、ただ死んでしまうより何かを残した方がいいと思ったのだ。
自分と同じ過ちを犯す者が出ないように……。
「モーリッツ、起きてるか?」
ドアをノックする音にモーリッツは立ち上がった。考え事をしているうちにどうやらうたた寝をしてしまったらしい。暖炉の火がずいぶんと小さくなっている。
モーリッツがドアを開けると、そこにはペーターを背負ったディーターがいた。祭り疲れで眠ってしまったのだろう。ペーターは何だか幸せそうな寝顔をしている。
「ペーターが帰り道で眠くなったって言うから背負ってきたぜ。あ、これペーターが買った物な。モーリッツの土産も入ってるらしいから、ペーターが起きた時にでも聞いてくれ」
ディーターの後ろにはジムゾンと手を繋いだリーザがいた。リーザはディーターの横からひょいっと顔を出すと、小さな紙包みをモーリッツに手渡した。
「これ、お爺ちゃんとペーターにリーザからクリスマスプレゼントなの。明日ペーターが起きたら渡してね」
そこに入っていたのは、自分達によく似た、木で出来た小さなサンタクロースと男の子のオーナメントだった。
「ありがとう、リーザ。大事にするぞい」
モーリッツはリーザを抱き締めた。リーザもモーリッツの頬にキスをする。
「お爺ちゃん、大好き」
「ありがとう、本当にありがとうな」
ペーターが眠っているベッドの横で、モーリッツは日記を書いていた。
もし……もし、自分達の村で何か騒ぎが起こって『真実の眼』を持つ者が出たら、自分はその者に運命を委ねよう。それが何者かは分からないが、悪魔に魂を売った自分が生き延びるよりも、その方がきっとこの村のためになる。
自分が若ければその運命に抗うことも出来るのだろう。だが老いてしまった自分にその勇気はない。
「ペーター、こんなワシを許しておくれ……」
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