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罪人達の船 第二章

罪人達の船 第一章
 
 死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである。
 エリック・ホッファール

 その日は朝から良い天気だった。
 いつもより少しだけ遅く起きたレジーナは、台所に立って朝食の準備を始めるためかまどに火を入れた。
「おはよう、レジーナ。今日は皆ゆっくりなのだな」
 そう言いながら部屋から出てきたのは、緑の帽子を被ったニコラスだった。レジーナはそれに少し驚きながら、今度はフロアの暖炉に火を入れる。
「新年の次の日は大抵こうさ。あたしもいつもより少しだけゆっくり寝かせてもらってるよ。コーヒーでも入れるかい? まあ今火を入れたばかりだから、お湯が沸くまでちょっと時間がかかるけどね」
「ありがとう、遠慮なくいただこうか」
 レジーナはニコラスに暖炉の方を任せ、台所の方に移った。片づけは昨日のうちに終わっているが、まだ料理が少し残っている。今日宿にいるのは自分とニコラス、リーザ、家に帰らず泊って行ったペーターとモーリッツ、あとはアルビンとフリーデルの七人で、多分他にも遅い朝食を食べに来る者がいるだろう。これも毎年のことだ。
「レジーナおばちゃん、ニコラスさんおはよう」
 次に起きてきたのはリーザだった。リーザはいつものように自分でちゃんと髪の毛を結び、服を着替えている。ただいつもと違うのは、紫のビーズで装飾されたバッグを持っていることだった。
「リーザ、それどうしたんだい?」
 バッグに気づいてもらったのが嬉しいのか、リーザは少し照れ笑いを浮かべながらレジーナの側に近寄ってくる。
「あのね、昨日ニコラスさんが『ママからもらったブラシとかをしまうのに使いなさい』って、プレゼントしてくれたの」
「おや、まあ……。リーザ、ちゃんとお礼は言ったのかい?」
「ちゃんとありがとうって言ったの。でも、レジーナおばちゃんにも見せてあげたかったから持ってきたの。お部屋にしまってくるね」
 リーザはバッグを持ったまま、おしゃまにくるりと一回転すると、また部屋の方に走っていった。それを見送りながらレジーナは少し困った笑いを浮かべた。
「すまないねぇ、ニコラス。あんな高価そうな物を」
 いつもはあまり感情を顔に出さないニコラスが、暖炉に薪をくべながらクスッと笑う。
「いや、いい。私がリーザに出来ることはあれぐらいだ」
「あたしも感謝してるんだよ。リーザもあんたに懐いてくれてるし、何より子供らしくしてるのを見るのが嬉しくてね」
 部屋から戻ってきたリーザが壁に掛けてあるエプロンをつけレジーナの方へやってきた。最近リーザは台所仕事を手伝うのが楽しいらしく、何も言わなくても自分から進んで手伝うようになっている。女の子は男の子より成長が早いというが、ペーターとリーザを見ているとそれは本当の話なのかも知れないとレジーナは思う。そんなリーザが笑いながらこう言う。
「レジーナおばちゃん、何かお手伝いすることある?」
「そうだね。じゃあもう少ししたら、ニコラスにコーヒーを持って行っておくれ」

 泊まっていたモーリッツとペーターや、アルビン、フリーデルが起き出してきて少しずつフロアが賑やかになってきた。だがいつもの光景なのに、何かが足りないとレジーナは感じていた。
 いつもの新年、いつもの朝。そのはずなのに何かが足りない。
 そんなことを思っていると、普段朝食をここに食べに来ないディーターとジムゾンがあくびをしながら宿に入ってきた。
「あー眠い。レジーナ、俺達の飯あるか?」
「おや、二人とも珍しいね」
 すると後ろにいたジムゾンが少し笑う。
「実はディーターってば、お酒の飲み過ぎで寝坊したんです」
「お前だって朝の祈りの後、眠くてもう一回ベッドに戻ったって言ってたじゃねぇか」
 ディーターはそう言うと、伸びをしながらまた一層大きくあくびをする。それを見てレジーナは、何が足りないのかに気が付いた。
「そうだ、今日はゲルトが来てないんだ」
「は? 俺が寝坊したのと、ゲルトが何か関係あるのか?」
 椅子にもたれたディーターに、レジーナは暖かいコーヒーを出しながら笑う。ディーターもジムゾンも昨日はかなり飲んでいた。きっとまだ酒が残っているのだろう。ジムゾンも話しながら、時々眠そうに目をこすっている。
「いや、何か今日は誰か足りないと思ってたのさ。ディーターが大あくびしてるのを見て、ゲルトが来てないって気が付いたよ」
 レジーナの言葉に、ディーターは煙草に火を付けながら辺りを見回す。確かにいつもレジーナの所で食事を取るはずのゲルトの姿が見えない。
 いや、現れるはずがない。
 ゲルトは今日の朝、自宅で人狼に襲われているのだから。
「昨日はゲルトさんも遅くまで飲んでましたからね。良かったら私が見てきましょう。丁度食事も終わりましたし」
 そう言って、食器を持って立ち上がったのはアルビンだった。
「いや、きっと寝てるだろうからそのうち来るよ。アルビンもゆっくりしてな」
 そう言うレジーナを、アルビンは笑顔で遮る。
「いえいえ、ご遠慮なさらずに。それに悪酔いしてお酒が残っていたら大変です。一人で苦しんでる事ほど辛いものはありません。私は散歩がてらしょっちゅう顔を出してますし、もし眠っているようだったらそのまま起こさずに戻ってきますよ」
 アルビンは食器をカウンターに置いて、笑顔のままドアを出て行った。

「あれ、ドアが開いてますね」
 アルビンは十分ほど歩いてゲルトの家に着き、いつもと様子が違うことに気が付いた。
 必ず閉められているはずの玄関のドアが細く開いている。アルビンはそっとドアを開けた。いくら酔っていたからといって、ドアが開いたままで寝ていたら風邪をひくどころの騒ぎじゃない。
「ゲルトさん? 起きてますか?」
 カーテンが閉め切られたままなのであちこちに絵が置いてある部屋の中は暗く、目が慣れるのに少し時間がかかる。アルビンは目を細めながら足元を見た。
 床に散らばった絵の具。部屋に漂う絵の具とは違う匂い。
 こぼれたままの液体。足下にぺたっと張り付くような感触。
「えっ?」
 アルビンは最初、自分が見た物が何か分からなかった。
 いや、理解することを頭の何処かが拒んでいた。
 足下に流れる液体。それをたどっていった先に見える、何か。
 それは奇妙な生々しさを持ったまま、そこに無造作に置かれている。しぶきがかかったような跡を目で追っていくと、それは壁や天井、そしてあの『赤い絵』にまで飛び散っていた。
 そしてもう一度、その「何か」を見た瞬間、アルビンは気づいてしまった。
「…………!」
 それは、ゲルトだった。
 いや、ゲルトだったのかどうかも分からなかった。
 まるで市場で見る解体中の肉塊のように、ゲルトはただそこに転がっていた。アルビンは思わず腰を抜かし床に手をついたが、ぴしゃ、という冷たい感触に驚いて、自分の手を見る。
 そこについていたのは、生々しいほど大量の赤。
 吐くとかそんな事は考えられなかった。いや、何も考えられなかった。頭の中が混乱して、どうしていいのか分からなかった。何処をどうして帰ったのかは分からないが、気が付いたときには宿屋にいた。
「ゲルトさんが……」
 体の震えが止まらない中アルビンに一つだけ分かったことは、ゲルトがずっと描いていた、あの『赤い絵』が完成したということだけだった。

「本当に、この村に人狼がいるようですわね」
 村人皆が集められた宿屋で、フリーデルは少し冷ややかにそう言い放った。
 あの後ディーターやニコラスが確認に行き、それが本当にゲルトだということが分かった。あまりに酷い光景だったのか最初に行ったアルビンは、まだ部屋の隅で真っ青な顔をしたままカタカタと震えている。見に行ったディーター達も心なしか顔色が悪い。ゲルトに終油の秘跡を行ったジムゾンも、帰ってきてからずっと無口だった。
「でも人狼がいるって言っても、一体どうしたら」
 カタリナは、オットーの横で青い顔をしていた。怯えているのか小さな物音にもビクッとし、自分の肩をずっと抱いている。そのカタリナを横目でチラリと見ながら、フリーデルはこう言った。
「人狼だと思わしき者を私達で処刑していく。それしか人狼を退治する方法はありませんわ」
 シンと辺りが静まりかえった。処刑ということは誰かを人狼だと疑って自分達で殺さなければならないのだ。ニコラスがそっと言葉を選ぶように話し始める。
「私も、以前立ち寄った村で同じような事件に巻き込まれたことがある。その時もシスターが言ったように、毎晩人狼と思わしき者を縛り首にしていって何とか生き残った、だが……」
 その言葉に、オットーが立ち上がった。
「俺は反対だ」
 ザワッと空気が揺れ、オットーの視線がフリーデルとぶつかる。
「ニコラス、一つ聞いていいか? 毎晩人狼と思わしき者を処刑すると言ったけど、誰がそれを人狼だと言い切れたんだ? もし間違って罪のない者を処刑したとしたら、俺達は人狼と同じ事をすることになる。違うか?」
「…………」
 ニコラスは無言だった。
 自分にその判別が出来ると咄嗟に言えなかった。人狼を退治した後、自分の目を見られたあの時の事を思い出したら何を言っても嘘のように聞こえると思ってしまったのだ。
 青と赤の左右で異なった瞳は人狼と同じぐらい異端だ。今ここで自分が死んだ者を人狼かどうか判別出来ると、皆に説得出来る自信はニコラスになかった。
「神の名において、村の為に殉教するのです。それを否定しなければならない理由がありますの?」
 フリーデルがニコラスの代わりにこう言った。だが、オットーは頑なにそれを拒否する。
「殉教なんて体のいい言葉を使っても、やることには変わりがない。人を殺すことに、人狼と何のかわりがあると言うんだ」
 オットーはそう言いながらあの夜のことを思い出していた。カタリナを襲おうとした人狼を二人で殴り殺した夜のことを。処刑と言う言葉に、あの生々しい感触が蘇ってくる。腕に伝わる何かが潰れるような嫌な感触や、どうやって止めていいのか分からない衝動を思い出す。
 あんな思いをするのは二度と嫌だった。それにオットーから見て怪しいのは、頑なに人狼にこだわり処刑を勧めようとするフリーデルだったからだ。聖職者だから人狼ではないという保証はない。
「俺は絶対に反対だ」
「じゃあ、貴方を処刑すると言ってもですの?」
「やめないか!」
 二人のやりとりを止めたのはヴァルターだった。いつもとは違う緊張感と気迫に、ペーターとリーザはモーリッツの服にしがみつきながら怯えている。子供ながらに何か大変なことが起こっているというのは分かるのだろう。リーザは時々袖で涙を拭いているし、ペーターもずっと黙ったままだ。
「ひとまず処刑のことは置いておこう。村長の私から言えば、村人を疑いたくない。シスター、貴女は分からないかも知れないがこの村は一度病で滅びかけた。それから、残った村人達で助け合いながら暮らしてきている。処刑なんて出来るはずがない」
「…………」
 フリーデルは溜息をついた。全く、なんて暢気なのだろう。既に人狼に襲われている者がいるというのに『疑いたくない』とは。
 だが自分の身分をまだ明かす訳にはいかない。知られてしまえば人狼に確実に襲われてしまう。おそらくジムゾンは自分が異端審問官であることを知っているだろうが、ここで何も言わないのはその事を察しているからなのだろう。人狼にとっても異端審問官である自分は厄介な存在だろうし、かといってここで意見を押し通そうとして煙たがられるのは困る。悔しいが今は退くしかない。
「ねぇ、本当にこの村に人狼がいるの?」
 おずおずとそう言ったのはパメラだった。パメラは自分を落ち着かせるように、目の前にある冷めた紅茶を一口飲んでゆっくりと意見を言いはじめる。
「だって、噂があったのは隣村からでしょう? もしかしたら、隣村から人狼がやってきてゲルトを襲ったのかもしれないじゃない。その可能性はあると思うの」
 また皆が沈黙した。人狼がどこからやってくるのか、この村の誰かなのか。疑い始めればキリがない。何もかもが怪しく感じる。
「橋を落とせば分かるかもしれんな。隣村とこの村を繋ぐあの橋がなければ街道に出るには少なくとも半日かかる。村を孤立させて、それから考えても遅くない」
 トーマスの意見に皆が頷いた。確かに隣村からこの村に来る為には、橋を渡らなければかなりの遠回りになる。その苦労をかけてまで隣村から人狼がやって来るとは思えない。この村に人狼がいると確認するためにはまだ時間が必要だ。
 だが、今度はフリーデルがそれに反対した。
「ちょっと待ってください。隣村に行かなければ手紙が出せませんわ」
「シスター、誰かに手紙を必ず出さなければならない理由でもあるのかい?」
「…………」
 異端審問官として教会と連絡を取らなければならないとここで言う訳には行かない。それに連絡が付かなくても、時期が来れば向こうから援軍がやってくる。それまでに事を済ませればいいだけのことだ。
「い、いえ。皆さんがよろしければ私はそれに従いますわ」
「だったら決まりだ。村長、それでいいか?」
 トーマスがそう言って立ち上がり、ヴァルターがそれに頷く。
 そうしてこの村は、人狼を抱えたまま世界から孤立することになった。

『今日は誰も襲わず様子見するぞ』
 緊迫する空気の中、ディーターが囁いた。それは人狼同士にしか伝わらない不思議な会話。
 リーザもジムゾンも、お互い別のことをしながらその言葉に反応する。
『様子見、ですか?』
 ジムゾンは聖書をめくりながら、チラリとディーターの方を見た。ディーターはトーマスに言われて、橋を落としに行く手伝いの準備をしていた。
『今日から人狼が村の中にいることをわざわざ教えてやる必要はねぇ。それにあの女がわめいてるおかげで目がそっちに向いてる、スケープゴートは多い方がいい』
『あの女って?』
 リーザの囁きに、ディーターはフリーデルの方を見た。険しい表情をしているフリーデルは、なんだか近づきがたい雰囲気を放っている。リーザもその仕草で誰のことか気づいたらしく、普通に食器を片づける手伝いをし始めた。
『リーザは、ディーターお兄ちゃんが決めたことに従うの。ママが、群れにはリーダーが必要でその人の言うことはちゃんと聞きなさいって言ったから。リーダーはディーターお兄ちゃんでいいんだよね?』
『私は異存ありません。ディーターにお任せします』
『じゃあ決まりだ。それに今朝食ったばかりで大して腹も減ってないしな』
 ディーターはそう囁くと、煙草に火を付けてからトーマスの後について宿を出て行った。

 トーマス達が隣村に続く橋を落とし帰ってきた頃には、既に日が傾いてきていた。
 冬の日は短い。これから夜が来て人狼達の時間になるのかと思うと、レジーナが作った美味しそうな夕飯の進みも遅かった。
「ねえニコラス。ニコラスは人狼事件に遭ったことがあるんだよね?」
 言葉少ない中で、そう言ったのはペーターだった。ペーターはパンにバターを塗りながら、無邪気に話を続ける。
「そうだが、それが何か?」
「じゃあ、どうやって人狼が誰かって分かったの? 僕、ここにいる誰が人狼かなんて全然分からないし、まさかくじ引きで処刑とかする訳じゃないよね」
 処刑、と言う言葉がペーターから出たことに、大人達はいたたまれない気持ちになった。無邪気に言ってはいるが、ペーターももしかしたら自分が殺されるかも知れないと薄々思っているのだろう。ニコラスは持っていたスプーンを置いた。
「私がその事件に遭ったときは、村の中に誰が人狼かを見極めることが出来る『真実の眼』を持つ者がいたんだ。一日一人ずつ魂を見て、それが人間か人狼かを知ることが出来た。それがあったから私はここにいられるのだが」
「一日一人って決まってるの? 全員一気に見られればいいのに」
 ヨアヒムがスープを突きながら困ったように呟く。ヨアヒムの目の前にあるスープはほとんど減っておらず、スプーンで突き回した野菜が崩れているのだけが見える。
「私にはよく分からないが、その力を使うには精神力がいるらしい。一日に一人を見るのが限界だそうだ。この村の中にもそのような力がある者がいれば……」
「もしかしてヤコブだったら出来るんじゃないかな、毎年来年どんな天気になるかとか、よく当ててるし。ねぇ?」
 ヨアヒムの言葉に、皆の視線がヤコブに集まった。ヤコブが星を見て暦を作ったりしていることは皆知っている。それを人狼の判別に使うことが出来れば、何とかなるかも知れない。
「ち、ちょっと待って欲しいだよ。オラは暦は作れても、そんな大層なこと出来ねぇだ」
 ヤコブが手に持っていたパンを置き、とんでもないというように手を振った。確かに星を見る事は出来るが、星を読んで何かを知ったとしても人を扇動することは出来ない。それに自分の星読みが何処まで正確に行えるのか、ヤコブ自身にも分かっていない。
「しかし、可能性があるのならそれに賭けてみるしかないじゃろ。のう、ヤコブ。今日はワシを見てくれんか?」
 モーリッツは優しげに笑いながら、隣に座るペーターの頭を撫でそう言った。モーリッツが人狼であるとは思えない。だとしたら、もっと早くに村に被害が出ているはずだ。モーリッツは、この村に一番長く住んでいる者なのだから。
 困り果てているヤコブに、モーリッツは諭すようにこう言う。
「出来るかどうかは誰にも分からん。じゃが、村の為にとにかくやってみてはくれんじゃろうか」
 ヤコブは無言で俯いた。自分にそんな大層なことが出来るとは思えない。だが、それが村のためになると言うのなら……。
「分かっただ。出来るかどうかは分かんねぇが、とにかくやるだけやってみるだよ」
 その言葉に、場の雰囲気が少しだけ和む。それに合わせてレジーナが大きく息を吐いた。
「じゃあ、皆少しでもいいから口に入れるんだよ。食べる気にならないかも知れないけど、お腹がすいたらそれだけで不幸だからね。ヨアヒム、スープを突き回したぶんはちゃんと食べてもらうよ」
 その言葉にドキッとしたヨアヒムが慌ててスープを口に入れ、その様子を見て皆が笑う。
 それは、ゲルトが人狼に襲われてから初めて出た笑いだった。

 その夜自分の家に戻ったモーリッツは、ペーターの寝顔を見ながら最後の日記を書いた。
 フリーデルは全員宿に留まるよう言ったのだが、ヤコブが「星読みの道具が家にあり、それを外に持ち出したくない」と言うので今日は一旦家に戻り、明日の朝になったら村人全員が宿に集まるという事に決めたのだ。
「すまんのぅ、皆」
 ゲルトが襲われた時にモーリッツが考えたのは、二年前に悪魔と交わした契約のことだった。
『これで爺さんの孫は元気に一人前になるだろうさ。ただ、他の隣人がどうなるか知ったこっちゃないけどね』
 あの約束が本当なら、ペーターの安全だけは保証されている。そんな事を考えた自分は、とても卑怯なのかも知れない。
 だが悪魔と契約を交わした自分に恐ろしいものはもうなかった。あと自分が出来ることは、自分の死をもって『真実の眼』を持つ者が誰かを村人に教えることだけだ。自分が死ななければ、ヤコブにはその力がないというだけで何も困ることはない。後は遺した日記が全てを皆に知らせてくれるだろう。
 モーリッツは最後にペーターの頭をそっと撫でた。もうこの寝顔を見ることはきっとない。死ぬことは恐ろしくなかった。自分は充分幸せだった。ただ、ここから逃げることだけが申し訳なかった。
 用意していた服に着替え、モーリッツはそっとベッドに横たわり胸の上で指を組む。
「思えばワシはずっと逃げてばかりだったの。ペーターは、ワシのように逃げずに生きるんじゃよ」
 自分の行くところは多分地獄だろう。悪魔がきっと待っている。
 それでもモーリッツは安らかな気持ちだった。
 こんな安らかな気持ちで逝けるのなら、悪魔に魂を売ったこともそんなに悪いことではなかったのかも知れない。そう思いながら、モーリッツはそっと目を閉じた。

罪人達の船 第三章


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