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境界線の弱さ〜寺育ちの特徴〜

最近、人間関係において「境界線」という言葉を、世間で見聞きする機会が増えたと実感しています。今回は、必要とされる境界線と、自分が持つ境界線の弱さについて、生活環境と照らし合わせて書いてみます。

自分と他人を線引して、自分を守る

境界線は、自分と他人の間に作るもので、お互いの領域(身体的・精神的)を守るために必要なものです。この境界線が曖昧になると、人との関わりの中で、不快な経験や思いが増えることにつながります。私は、これは育った環境によって身につくものだと、実感しました。

嫌なことにも「嫌」と言ってはいけない環境

寺で暮らすということは、人の出入りが多い環境に身を置くということです。近所付き合いより、踏み込んだ会話が日常的な環境です。中には、自分にとっては苦手な人や腹の立つ人もいますが、付き合いを解消することはできない檀家の場合は、子どもの頃から「不快な感情」を抑えながら、「可愛がられることを受け入れる」場面もありました。

プライベートに踏み込んだ世間話も、応対する立場では煙に巻いて逃げることもできません。長居する檀家に、「帰って欲しい」とも言えません。また、寺で暮らす私達の中では、プライベート空間として線を引いていても、行事がある時などに、檀家が「良かれ」と思って片付けで勝手に入ってくるのも、よくあることでした。

我慢して大人の対応をする癖がつくと入りこまれる

こんな環境で暮らすと、「キッパリ断る」癖がつかず、どんな人にも「受け入れる」習慣だけが身につきます。そうすると、学生時代から「周りから相手にされない人」「面倒くさい人」がなぜか自分の周りに残ります。他では冷たくされて、無視しない私に流れ着いてくるのでしょうか…

この理由を考えた時に、「早い段階で関わらない方がよさそう」という判断力が身についていないことに気付きました。他の人達は、早くに気付いて回避してるんです。一方、私はというと、先入観を持たずに平等に関わり、違和感に気付いて距離を置きたい時には、すでに出遅れた状態になっていました。

面倒見が良い人に好かれやすい

面倒見が良い人に好かれると聞くと、一見、可愛がられやすいと思われるかもしれませんが、そうではありません。面倒見が良い人の中にな、面倒を見ることで自分の意見を通すタイプの人が存在します。親切に気を利かせた行動をすることで、される側は「申し訳ない」気持ちや「罪悪感」を抱きます。ハッキリ断れないと、そういった関係が定着しやすく、だんだん介入・侵入されやすくなり、最終的には馴れ馴れしく相手のペースに持っていかれやすくなるんです。

頭ではわかっている

頭では、自分と他人を区別してます。でも、線引した行動を取れないんです…そんな習慣がなかったから、方法がわかりません。

私には、他にも原因があります。母親です。私は、「自分と他人の問題」は分けて考えるタイプですが、幼い頃から母親は、「親の問題に巻き込んでくる」習慣がありました。「親の問題」でも、「家族の問題」にすり替えて巻き込んできました。これに慣れているため、普段の人間関係においても、人に巻き込まれやすいです。「可哀想」に思えてきて放っておけなくなるんですが、私には「気付かなくて関わらなかった」状況にしないと、回避するのが難しいです。

まとめ

いかがでしたか?良い人になっても、自分の気持ちを後回しにしたり、我慢して相手に合わせたり、優先する必要はありません。
「自分と他人は区別していい」「線引きするのは悪いことではない」と、自分に言い聞かせることで、親の期待や都合に応えないために、自分を守る方法としています。
境界線を引けるようになったら、自分の中にモヤモヤした気持ちは減りました。自分が優しい気持ちになることで、周りにも優しく関われるように思います。

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