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self-quarantine diary 6/25/2020

オンの泣き声で6時半起床。最近は毎日こんな感じで、寝て起きたあとには必ず泣いている。「だっこ!」と言われても抱っこしたらそっくり返り、おやつを勧めても「ちがう!」と断られる。ひとしきり泣くまで落ち着かないタイプ。この部屋にあるすべての物質をひとつひとつつぶしてしていく必要があるかのような。昨日の昼寝後もそうだった。たぶん、泣かなきゃなんないんだと思う、眠りから覚醒へのジャンプは、それほどまでに大きいってこと?

松樹に任せた二度寝後(「パパがいいパパがいい!」)、朝食を終え園に出かけるオンに靴を履かせるためにベッドから出た(わたしたちの儀式である)。そのふらふらのからだで考える、わたしたちはいつのまにか眠りにつき、必要にせまられて起床するけれど、睡眠と覚醒のあいだにはきっと広大な空間がひろがっている。川というより大きなプール、そこには夢やら忘却やら時間軸がぶっこわれた記憶やらが放り込まれている。さらにその底には別の世界がひろがっていて、人間に属していないような、起きてるあいだには想像もできないような存在がたくさんいる。それらをぜーんぶ経験して、もしくはえいやと振り切って、水からあがらなきゃなんないのなら、そりゃあ心も乱れるだろうし、からだだってふらふらになる(起床直後の、自分のからだが自分のじゃないような、崩れた着ぐるみみたいなあの感じ、目玉が腕のあたりについてるみたいなズレ、何度やっても慣れないよ)。羽がないままプールを越える、大きな大きなジャンプもある。それともあなたが泣きたくなるのは、跳躍なんてしたくなかったから?

二度寝後、世界史についてのPodcastを流しつつ歯磨き、お湯飲み、ヨガをする。諸葛孔明が無謀な戦いを挑んだのは、紙の発明により書きもの文化が発達して、歴史に名が残るという条件が揃っていたから云々を聴きながらシャバーサナ。電子レンジにラタトゥイユが放置されているのを発見して、温め直して食べる。それだけじゃ足りなかったので、まだ残っていたポテトサラダに「勝ちえびラー油」(大分、宇佐産)を落として食べた。

ところで、二度寝でプールに飛び込もうとしたわたしはうまくいかなかった(わたしだってプールがすきだ)。だから瞑想アプリのサウンドスケープに頼り、はじめての「Sound of Wave」を試す。だけどぜんぜん落ち着かず、結局いつもの「Heavy Rain」を20分オンにする。ただ雨がざあざあ降っているだけの音。波の音は、波がひいて戻ってくるまでの、そのささいな時間を無意識に待ち構えてしまうのがよくなかった。「待つ」って行為には心もからだもたくさんつかうことになるんだね、それはここに留まりながらも先へ進んでいくような、ダイナミックな静止、分裂。それはわたしにはつかれることだ。なのに何度も何度もやってしまって、これまでずいぶん失敗してきた。だからもし「待ちたい」のなら、疲弊しないでそれしたいなら、わたしはもう先へ行ってなきゃならない。先へ行ってうしろを振り返ったときに「ああ、わたしはこれ待ってたんだな」って思う、そんな転換をしなくちゃならない。むかし、どこかで読んで目から鱗だった「祈りとは、すでに叶っていることに感謝すること」という言葉。もしくはわたしがときどき経験する、「願うまえから叶ってる夢、すきになっただけで大成功の恋」。そんなふうに言葉をつかって、だめをだいじょぶにしていく日々だよ。

ところで話は冒頭に戻るけれど、人間のからだが、肉体(物質体)だけじゃなく、エーテル体とかアストラル体、そして自我からできてることを知らなかったら、

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