self-quarantine diary 6/14/2020
雨の日曜、レインコートとレインブーツを履いたオンと手をつないで母と父の家。6月からまた週末にあずけるようになり、ひとりの時間がだいぶ戻った。オンのレインコートは黄色で、レインブーツはあかるいブルー。わたしはパープルの、ちょっと未来人みたいに見えるカットソーを着ていて(しかもMOMO topという名前がついてる。もちろんエンデのモモだよ)、住宅地のあちこちに植えてあるパンジーを指差したオンが「これはきっちゃんとオンじゃないかー!」と高い声で笑ってた。パンジーが黄色とパープルの組み合わせだってこと、今さらながら驚愕する。黄色とパープルはわたしのなかではもっとも遠い色同士で、それが一緒になるとまるで異世界の存在みたい。手をつないであっちへふらふら、こっちへふらふら、花を見つけるたびに奇声をあげるカラフル服のわたしたちも、たぶんけっこうエイリアン。わたしは最近、自分から抜け出す術をいい感じにつかえるようになり、そんなふたりを空から見ているとウッと涙がでてくるのです。それでも「なかにいる」ときは、カリカリピリピリ、「早く行こうーー」なんてオンの手を引っ張ってしまう、時間泥棒はわたしだ。でもモモにだってなれる。きっとこれからも、行ったり来たりをくり返し学んでいくのみ。
ひさしぶりに図書館、予約していた本を3冊受け取る。自粛期間、これまでにないペースで本をばんばん買ったけど(なぜ? 読める時間もいつもよりなかったはずなのに。ストレス解消なのかな)、それでもまだ読みたい本というのがある。図書館入り口には折り紙のてるてるぼーずがずらっと並んで貼られていて、オンはそれらをずっと見てた。「どうしてこういうの、きれいに見えちゃうんだろうねえ?」 オンを預けてバスに乗り、ひさしぶりのカフェに。もともと座席に余裕のあるつくりで、日曜日には近所の人だけであっというまにいっぱいになる。すでにこの店でもエアコンががんがんで、冷え性のわたしは数冊の本とパソコンでぎちぎちのトートバッグに、さらにカーディガンをつめこんできた。熱々のカフェラテはすぐにさめた、わたしもどんどん寒くなる。こういうとき熱量保存の法則がかなしいのは、わたしとカフェラテよりも、カフェラテとそのまわりの空気のほうがよっぽど近いってことに気づかされるから。あるときには媒介者であり、また別のときにはバリバリの壁となるふしぎな空気よ。
借りた本の1冊は松村潔の『愛蔵版サビアン占星術』。ひさしぶりに鈍器サイズの本。(ところで、最近本を読むときにBGMにしているのはAnne Laplantineの『A Little May Time Be』で、「Rev」から「Where It Goes」に差し掛かるあたりで泣きそうになる。なにか思い出せそうで、思い出したら光につつまれるだけ、蜂蜜みたいに強烈なそれにつつまれたらもうここへ戻ってこれなくなっちゃいそう、というようなメロディー。あの人に出会わなかったら、一生聴くことがなかっただろうって曲、あなたにもある? わたしにはけっこうあるよ。)一般的な占星術では、天球の360度を12で分割して30度ずつの、いわゆる12星座(サイン、さそり座とか水瓶座とか)がつかわれているけれど、サビアンはそれを1度ずつまでこまかく区切り、つまり360個のシンボルにわけて説明するものなんだって。だから蠍座だけでも30種類あって、生まれたときの天体をより詳細に読み解くことができるらしい。しかもそのシンボルは獅子とか雄牛とかシンプルなものではなく、「二つの暗いカーテンを引いている女性」(蠍座12度、わたしの太陽)とか、「自分の影を探すグランドホッグ」(射手座15度、わたしの木星)とか、「表現の機会を待つ人間の魂」(獅子座14度、わたしのアセンダント)とか、それじたいがわたしには詩の、神話の、物語のきっかけみたいでわくわくする。自分が生まれてきたときの空模様がおしえてくれる、わたしの物語を書くためのヒントというか。なんかネイティヴアメリカンの名付けみたい。そういうのみんな持って生まれてきたなんて、ずいぶんすてきじゃないですか、と思ってこのカフェにいる人たちの顔をじろじろ見てしまう。
『サビアン占星術』の前書きにはこんなことが書いてあった。「異なるものに共通点を見出し、統合していく能力を類化性能と言いますが、この能力が発達するほど知性が高度になり、応用力も高まります」。たとえば知性とか応用力とか、わたしはそういう言葉がずっとにがてだった。それはおそらく、学力テストとか受験勉強とかからはじまる学歴偏重主義みたいなものをイメージしてしまうからだと思う。でもよく考えたらちがうよね。知性っていうのは、ほんとうにその通り、ものとものを結びつける力のことで、応用力っていうのは、きっと物事の可能性をそのつど引き出していく力のことだ。たとえば「二つの暗いカーテンを引いている女性」というシンボルと、わたしとの共通点を見出そうとしてみる。「日常的な意識と、特殊なトランスの意識を自由に切り替えて、必要な時に必要な状態に入ることができる人といえます」。カーテンの先にあるものは、既存のものが通用しないまたぜんぜん別の世界、霊界みたいなものの入り口だとしたら、わたしはそれを開けることも閉めてくこともできる? カーテンをじゃっと開いて外に出て、またサッと引いてなかに戻る。行ったり来たり、行ったり来たり、それをくり返えして学んでいく。そして、あれ? さっきそんなこと書かなかったっけ、とテキストエディットをスクロールして冒頭、パープルのカットソーのモモのわたし、時間泥棒のわたし。現実と暗示がつながっていくどきどきやわくわく、見いだす喜び、統合のちから、そういうのは「間違ってないよ!」のうれしい響きとなって返ってくる。やってきたこと、考えてきたこと、間違ってないよ、おもしろいね、生きてるとつながるね、そんな感じのメッセージ。
こんなふうな統合の喜びを、もう15年も前に感じていたことを思い出したのは、今いるカフェの窓から見える景色が、大学時代のゼミの教室から見えるものと似ていたからかもしれない。午後いちばんの授業で、大好きだった(夭逝したのだ)教授の熱い講義を聞きながら、わたしは眠いのと感動するのとで涙が止まらなくなりそうになり、いつも窓の外の木々をジッとみながら気持ちを落ち着かせていたんだった。統合の喜び、まるでぜんぶが、これまで自分が考えてきたこと、感じてきたことのすべてがつながっていくことの、あのなんとも言えない肯定の喜びを感じたのはあの頃からだった。22歳になりたての冬、あと少し卒論を提出しなくちゃいけなくて、毎晩徹夜しつつも、静かな部屋では集中が切れてしまうわたしは、当時のわたしにとっての「3大movie」をテレビで流しながらパソコンに向かっていた。「ヴァージン・スーサイズ」と「ガンモ」と「ベルベット・ゴールドマイン」。それから音楽はPJハーヴェイにエリオット・スミス、モッデストマウス。すべてlate teenに出会って、20代前半までわたしの中心にあったあこがれの。参加していたゼミは19世紀アメリカ文学が専門だったけど、わたしは途中からフィッツジェラルドにとりこになり、それでもあの教授の下で書きたかったので無理やり頼み込んでいさせてもらった。もちろん、『ヒロインズ』を読んだあとの世界に生きてるわたしは、もうあんなふうにナイーヴに、注釈なしで『ギャツビー』愛をぺらぺらしゃべることはできない。いろいろ胸が痛すぎて、アマゾンオリジナルの「ゼルダ すべてのはじまり」を見ることもできないくらい。でも、22歳のわたしのあのときの興奮はばかばかしいくらい単純で、いま思う「統合」とはちょっとちがうけれど、それでもなんだか正直でかわいらしくすらあり、だからこれからそのまま下に載せてみます(言葉づかいも何から何まではずかしかったりはするけれど)。
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じりじりとわたしの指先をひっかく。さて。どうしたものでしょう! 月曜日にゼミで先生がこう言った。「いい文章ってものは、」わたしはごくり、とのどを鳴らす。「切ったら血が出るものなんだ」 はっとしたように指先を見つめる。さて。
先生がエミリーディッキンソンの詩を授業始まってすぐ語りだした。「冬の午後」とエミリーは書いている。「窓から差し込む斜めのひかりが、」彼女の胸を、重く押し付けるーー
どうしたものでしょう!このような世界からわたしはあと二ヶ月するでもなく引っ越さなきゃいけなくなる。ほんとうに焦りがつのる。地面からわたしの水分がすっと立ち上る。はぁ。
昨日は昼間からバンバン卒論を書きまくり、
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