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self-quarantine diary 5/24/2020 (insta-live special)

毎日毎日、窓から外を見てる。この時間、たいていひとりで、たまに2人で、まれに3人で。毎日毎日飽きもせず、それでもときに沈んだ気持ちで。わあ、とわざとらしく声をあげたり、フーンと首を傾けたり、それとも口をかたく閉ざして、ただつめたいガラスに手を押しつけたり。からだを使うわたしは、毎日こんなふうにちがう。それでもいつも変わることなく、心にひろがるものがある。きょう見る空は、きょうわたしがはじめて見る空、きょうここにいるわたしは、きょうここにはじめているわたし。だからいま、空とわたしはこんなにも近くて、でもあなたとはすこし遠い。あなたがここにいなくなると、きょうのあなたの空が消える。その空をわたしも見たくて見たくて見えなくて、すると見たいかもなんだかわからなくなって、ただガラスに顔をすりつける。細い細い月が消えて、星はまるで見たことすらないみたいで。

わたしは右から、あなたは左から、永遠にわかちあうことなんてできないみたいな広すぎる空を、すこしずつすこしずつ近づけていく。

「わたしがここで生きてると、ここはどんな場所になる?」

この言葉だけたずさえて、どうにかここまできたつもりだった。心のなかに立てられたローソク、小さく揺れるほのおでも、なんとか照らせる世界がある。でもそれはちょっと嘘だ。そう遠くないむかし、この言葉の並びはちがって、もっとずっと暗かった、ほのおはため息でいまにも消えそうで、「わたし、なんのために、生きてるんだろう」、ちぢんだ光は足元だけ映して、じぶんの手すら見えなかった。

でも、ほんとにそうかな、そうだったっけ? もう忘れちゃった。

「わたし、なんのために、生きてるんだろう」が「わたしが生きてると、ここはどんな場所になる?」になるまで。ティーネイジャーみたいな孤独の叫びが、きっぱりとしたクエスチョン・マークに変わるまで。その変容の道すじを知りたくて、わたし自身があきらかにしたくて、だから日々文章を書いてる。とくに最近は。きのうの淡の間さんとのインスタライブでも、すこしだけ、すこしだけそんなことにふれられたような気がする。

(見てくださったかた、ほんとうにありがとう! 手をふる絵文字があがるたび、あたらしい挨拶のやりかたを知った。それはあたらしい心の使いかたでもあった。みんなではいったあたらしい部屋、そこでは顔もからだも、声も心も、あたらしいかたちと響きで、ここに一緒に存在してる感じだった。緊張がほどけたとき、それをはっきり感じる瞬間があった。見えないローソクに手をかざすとき。)

きのうも話したけれど、淡の間のセッションに行ったのは、共通の友人がたくさんいて、だからとにかく彼女に会いたい気持ち、それだけがつのってすぐさま予約した。そのメールで、彼女がわたしのことをずっと昔から知っていて(5年前と!)、いろいろ読んでいてくれたことを知った。名字が漢字まで同じことも(「わたしも池、そう、池なんです!」)、名前の母音がすべて一緒なことも(U・I・O、深くものごとに沈みこみ、そこで「わたし」が立ち上がる、両手をまるく、そのまま世界を包みこむ、オイリュトミーならそんな響き)。こういうとき、またさっきの言葉に火がともる。わたしが生きてると、わたしが書いてると、彼女が生きてると、彼女が星を読んでると、いつのまにか道ができている。それがいくつも重なって、ここは人間の交差点、ここでわたしが生きてると、わたし自身が運命になる。道はいつのまにか網の目にひろがり、わたしはそれを安全ネットにこの世界を移動することができる、安心。

セッションに向かったわたしはただただ彼女と話してみたい気持ちだけ抱えて、そしてその場所はまた別の友人のたいせつな「居間」、だからわたしはうれしくてしかたなくて、問題なんてひとつもないですよ、みたいな顔でにこにこ扉をあけた。星についての話をして、人生にまつわるアイディアを交わし、友情を育んで最後に手をふる、そんな感じで終わるのかと思っていた、でもちがった。

何がちがったんだろう? 忘れちゃった? いま思い出せるかな。そのとき感じたのは、大いなる安心感の大地と、その安心感をおなじくらいつよいちからで崩していくような雷、いなずま、わたしがこれまで集めてきたローソクすべてにいっぺんに火をつけちゃうような。!!!!!!!!!!!!! そうか、そうか、そうなんだ。忘れちゃった? いま思い出した。

でもわたしは「不動宮の女王」、太陽蠍座、月水瓶座、ASC獅子の、MC牡牛。がっちがちの十字架に、それでものんきにはりつけられたみたいな感じで、いなびかりを浴びてもからだは動かない。だからしばらくそんな感じだった、ずっとそんな感じだった、そう思っていたんだけど。たぶんわたしはまた変わった。とりあえずここでnoteを書いているだけでも、これまでとはぜんぜんちがう、そしてぜんぜんちがう心持ちでまたきょう、はじめましてみたいにnoteを書いている。継続して書くことで気づいたこと、それはわたしが毎日毎日、そして毎時間、毎分ごとに変化してるってことだった。このdiaryをはじめたころのわたしと今のわたしはずいぶんちがう。そしてきのうインスタライブをしたあのときのわたしとも(変わったことを、書くことはけっこうむずかしい。変わったときには、まるですべてがあたりまえみたいになって、わたしはその場所にまたどっかり腰をおろしてる、むかしからずっとこうでしたよ、みたいな顔して)。変化したわたし、変化してるわたし、それのなのにずっとわたしのこのわたし、これはいったい、だれ? だれ?

ひとつ言えるのは、「わたしたちは、それぞれが世界にひとつしかない楽器」みたいなものだってこと。そしてそれは淡の間さんが話していたように、わたしたちが生まれたときの星々の配置、それで決まるぶぶんもあるのだと思う。ネイタル・チャートはもしかしたら、その楽器をどうやって組み立てたらいいのかの説明書でもあり、どんなふうに奏でたらいいのかの手引きなのかもしれない、わからない。古代ギリシャでは、天体が動くことで音を発し、つまり宇宙ぜんたいがオーケストラのように音楽を奏でているという発想があったという。天体物理学者のヨハネス・ケプラーも、音楽と天体運動の法則のあいだに共通するものをさがそうとしていた。それからオーストラリアのアボリジニの創生神話をあらわす言葉「ドリーム・タイム」。彼らの先祖は、歌うことで世界を存在させた。リルケもまた同じようなことを言っている、「歌うことは、存在することだ」。

天体、音楽、楽器、歌、それからわたしたちの喉。ルドルフ・シュタイナーは言った、「人よ、語れ、そうすれば宇宙があなたを通じて開示する」。そして……

「人間の咽頭は、これのもっとも美しい実例である。これまでの考察で観察した運動形態は、咽頭の運動の可能性をあますことなく観察される。換言するならば、自然がその被造物を創造するに際してもちいるあらゆる運動、さらには被造物が現在利用している運動のすべては、人間の咽頭において見出されるだろう。創造的実体が、咽頭に集合したようにおもわれる。咽頭は数かぎりない運動の可能性をもっている。その一つ一つが呼吸の流動に影響し、空気の流れの上に運動形態を刻印することができる。こうして空気の流れは音や音色や言葉となって聞こえるようになるのである。」
/『カオスの自然学 水・大気・音・生命・言語から』テオドール・シュベンクー(工作舎)
「子音の世界は獣帯(ゾディアック)として秩序立てられ、母音は惑星の世界をあらわした […] 咽頭は、人間という形態にまで達している星界の祖型的活動を内含している。もしも、その活動が運動形態としての一個の人間にそっくり対応しているとするなら、さらにすすんで、この祖型的活動が咽頭を通じて可聴的なものになっているばかりではなく、人間の肉体全体の運動を通じて可視的になっていると考えてもよいだろう。[…] 人間は自らの内部に音色、すなわち音楽の領域を保有しているが、これもまた人間の運動を通じて、音色上の法則にしたがって視覚化することが可能である。」/同上

そこでこの本はオイリュトミーの話につなげていくんだけど、もう頭がごちゃごちゃしてきちゃったのでやめます(きょう、これを書きながら、いろんなことに時間を分断されて、ずいぶんだらだらしてきてしまった)。

でもね、あらためて、言いたかったのは、書きたかったのは、わたしたちはそれぞれ世界でひとつの楽器みたいなもので、よく鳴る日もあれば、ぜんぜん鳴らない日だってある。わたしはある先生に、「あなたは1日に1回、それも10分くらいしか鳴らない楽器」と表現してもらったことがある(それでいかに救われたかについては、またのちほど)。でもたった10分、そしてそのとき鳴るのが完璧にうつくしくはなかったとしても、そこに思いがあるなら、わたしはこれいま鳴らしたいというつよい思いがあるなら、きっとわたしも世界も変わっていく。生きてると、音が鳴る。生きてると、わたしが鳴る。それはこの場所に響いていく。音は言葉、それが声で発せられたものでも、文字として書き連ねられたものでも。

わたしが淡の間のセッションを受けてもらったのは、「わたしはわたしを大切に扱ってもらった」という強烈な感情だった。いま、ここ、いまこの場所で、わたしもあなたも「わたしの話だけしてもいい」というその安心は、何ものにも代えがたいものである、そういうことを思い出した。話をきいてもらえる、わたしのことを話してもらえる。まるでそれがとてもおもしろいもので、大切で、めずらしく、いくら話しても尽きることがない、飽きることもない、そんな感じで、子どもみたいにくったくなく。わたしは唯一無二の大切な楽器で、それにていねいに油をさしてもらったんだと思う。それに自分で油をさすやりかたも教えてもらった。思い返してみれば、わたしはいろんな時にいろんな場所で、いろんな人からそうしてもらってきたんだった。対面でなくとも、出会ったことすらなくとも、たとえばインターネットを通じて。

わたしがわたしというわたしをやっていくこと。だからこそ、わたしはあなたを大切にしたいし、あなたにも大切にしてほしい。人間という楽器のわたしたちは、たぶん、話すことで、聞くことで、書くことで、読むことで、もしくはあなたとわたしがここですること、ありとあらゆる行為を通じて、それを実行することができる、やさしさを交換することができる。知っていたはずなのに、忘れてしまったこと、そういうことをそれぞれ持ち出しあって、思い出しあうことができる。わたしはあなたにやさしくしたいし、あなたにもやさしくしてほしい。そういうことを、何度も、何度も、積み重ねていくこと、たとえその場所が淡の間でなくても、わたしでなくても、カウンセラーでなくても、あなたの身近な人たちと、もしくはこれからはじめて出会う人と、なんだかぜんぜん知らなくて、やっぱりぜんぜん知らないまま、一瞬の邂逅だけで過ぎ去ってしまう人とも、そしてぐうぜんSNSで目にした人も、だいじに、だいじに。たとえそれを忘れてしまっても、たとえ何度もうしないそうになっても。何度も、何度も。やり直そうとするじぶんを、どうか責めないで。それぞれがそれぞれにしか出せない音を鳴らして、ここでいつだってあたらしい音楽が生まれるように。ねがわくば、そこに「わたしのことも他者のことも大切にしたい」という意志が存在しますように。


実はきのうのライブの前、というかきのうはずっと、

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