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self-quarantine diary 6/3/2020

緊急事態宣言が解除されて、もう何日経った? ぜんぜんフォローできないくらい街の雰囲気はすっかり元に戻っていて、わたしですら午前中、人のいない時間をねらってカフェのテラスでふつうに仕事をした。6月も3日ぶん過ぎて数字の真新しさも消えたし、2020という並びもなんだかすき間だらけでしらじらしい。もしわたしが高校生だったら、くやしくてムカついて壁にシューーーーッとなにかペイントしてしまいそう。でもわたしは高校生じゃないし、たとえ高校生でもそんな度胸もクールさもなかった、だからこれを書いたわたしはどこかまた別の世界にいるわたし、そういうものに憑依して最近はなんとかいろいろやり過ごしてる。

いちはやく閉鎖していた庭園美術館もようやく再オープンして、だから今日、オンと松樹とピクニックをした。そう決めていたから今朝は早起きして、めずらしく朝食も用意した。昨日持ち帰りしたピザの残りとスープをあたため、水菜とアボカドとトマトやなんかでサラダを作った。ドレッシングはオリーブオイルと、残っていたライム、クレイジーソルト。久しぶりに3人で食べる朝食はなんだか落ち着かなくて、わたしはあっという間に食べ終わってしまった。”You may leave the table!”という許可を誰に求めるでもなく、ベッドに転がり込む。大人であることが、自分をわがままにしていると思う。

庭園美術館の入り口では体温を測ることになっていて、だからオンも自ら腕を差し出し検温。終わったあと、「なんでお熱はかるんだろうねえ」「おじさんがやってたねえ」とひとしきり盛り上がっていた。比較的プライヴェートなものだと思える体温を、こうして気軽に人とシェアするのはやっぱりなんか変だ。それにせっかく測ってもらったわたしの体温を、ただの数値としてしか消化されないこともなんだかさびしい。もっと、「おお!さすが」とか「こりゃいいですね」とか「この数字の組み合わせは光と水の融合を感じさせますね」とか話してみたい。でもそんなことほんとにいちいちされたら当然うんざりだし、とにかくこうした行為にもすぐに慣れちゃうんだろう。

昨晩、寝る前に歯を磨きながら窓の外を見ていた。コンタクトはすでに外していたから、もうずいぶん太った月はよけいに膨れて見えた。ぼやけた月、にじんだ月、でも実際の月自体は何も変わらずくっきりと形を持って存在してるはずなのに、わたしを通すとぼやけてしまう、にじんでしまう。そういうふうに月とわたしとの関係について考えていたら、口がゆがんでよだれが垂れた。ぼやっとしていた月はしだいに光が弱くなり、数秒後には見えなくなった、と思ったらやっぱり光を取り戻した。それはこちら側に雲が通り過ぎていったから。こうしてまた月、わたし、雲と登場人物がふえていく。そもそもガラスだって目の前にある。そして風の存在。方角がわからないので右から左へ流れていく、わたしと自然物とのオリエンテーション。そういえば、まだ読み途中になっているレベッカ・ソルニットの『迷うことについて』にもそんなエピソードがあった。カルフォルニア州ウィントゥ族の人たちは、自分の体の部位を指すときに、左右ではなく東西南北の方位をつかう。「自分はまわりの世界との関係によってのみ存在していて、山や太陽や空なしには自分もまた存在しない」

月がぼやっと見えたこと、その事実だけじゃなく、それがぼやっと見えたことや雲に隠れたときの「わたし自身の」感情の変化、つまりわたしの内面で起きたことに注意をはらうようになったのは、最近、シャーマニズムや神秘学、オカルティズムについての本を読みあさっているからかもしれない。わたしの心のなかで、あのぼやけた月は、笑いそびれたいつかの笑顔のかけらだった。

最近はほんとにとつぜん憑かれたようにたくさんの本を読みはじめていて(ほんとうに読み「はじめている」というのが正しい、一斉にいくつも開ききはじめ、細切れ時間ではてんで終わりが見えない)、それも小説じゃないやつばかりで、いったいどうしたんだろうと思うほど。いくつかあたらしくはじめたリチュアルもあるし、このまえ受けたセッションで教わったサビアンシンボルや、注目しているアントロポゾフィー系のpodcast、それから昨日体験したてのフォルメン描画のことなど、わたしにはあなたに話したいことがたくさんある。だからいまからぜんぶ、いちど下にまとめてみようと思う。読んでいる本、してること、そして大事なのは、それらとわたしとの関係。おととい声の配信でもちょっとふれたけれど、この日記はこれからもっと「わたしの学びの記録」みたいになっていくような気がしています。[self-quarantine]を拡大解釈して、外界からちょっと隔てられたわたしの心のなかで起きていること、つまり内観修行についてのわたしのレポート。そしてこうした「行」はべらべら人に話すもんじゃない、と神秘学の本にも書いてあったので基本的には有料記事部分で。たとえば知りたてのサビアンシンボル、「芝を刈る太った少年」のように、自分自身のためにふんふんとやったことが、いつのまにか誰かの役に立ったらいいよなあとか思いながら 。

昨日は、夜寝る前に5分間、ヨーグルトというものについて集中して思考した。なんのことか、と首をひねりたくなるけれど、それは高橋巌の『神秘学講義』の最後の方に載っていた、

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