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self-quarantine diary 6/8/2020

頭痛ーるをいそいそと開いたのに「OK通常」に、エーッとがっかりさせられる頭痛のよる。左肩には丸太が3本積み上がっている。今日は10時起床、起き上がってすぐ、「おそろしくひどい夢を見てたから起こしてくれて助かった」と松樹に告げる。しかし実際にはそこまでひどかったわけではなく、松樹に言いながらそのことに気づいたけれど、撤回はしなかった。夢の終わり、わたしはバス停で誰かとやりとりをしていた。相手を傷つけたのか自分が傷ついたのか、とにかく「ささやかな言葉」が心のなかで大きな波紋になるのを見た。でも相手もわたしも気づいてなくて、それを夢として見ているわたしだけが知っている、というような。

昨日は1日かけて細切れで『WHEN THEY SEE US ボクらを見る目』を一気見して、それから「セントラルパーク・ジョガー事件」のことを延々と調べてしまい、ハーレムの歴史も読んだりして(最初にマンハッタンに入植したオランダ人が、オランダの地名Haarlemハールレムを元に名付けたこと、そしてそこに住んでいて追い出されたネイティヴアメリカンのレナペ族の言葉がマンハッタン島の名前の由来だったことも)寝るのがずいぶん遅くなった。わたしには知らないことが多すぎて、知らないことが多いと現実と自分との距離が遠くなってしまう。距離が遠くなると、感じることも行動を起こすことにも時間がかかり、そうするうちにたくさんのことが見逃されてしまう。1989年から2020年、変わることなく続いてきてしまったこと、それを作り出している構造、そしてそれがどんどん巧妙になっているだろうこと(今日「dog-whistle politics 犬笛政治」という言葉を知った。詳しくはここで)、本当に今、ここで、気づいて、ここで終わらせなきゃいけない、そのためにわたしには何ができるか。black lives matterに関する投稿のなかに"you have to take a side"と書かれているものがあった。自分はいまどういう立場に立っているのか(どちら側にいるのか)、そして自分にはどんな特権があってどこから発しているのか、自分で考え、把握し、それを表明する必要がある、いろいろな局面において、ほんとうにそういう時代なのだと思う。ドラマや映画の力についても考えさせられ、これを教えてくれた友だちと「いっぽう日本のNetflixは…」とやりとりした。『13th 憲法修正第13条』も見ます。

10時半からzoomでオイリュトミーなのであわてて身づくろい。今日は「聖なる言葉を動く」の2回目。月末にある3回目は、いよいよ対面でのレッスン再開となるかもしれない。zoomはとにかく気楽でいいけれど、オイリュトミーを人と一緒に動くときの、あの空間の変容はなにものにも変えがたく、とくべつな体験。そういうの、ほんとうは小学校とかで感じたかったと思った。なぜ、体育をするのか、なぜ、体を動かすのか、なぜ、わたしたちはここに一緒にいるのかを、言葉の説明じゃなく、しかも良い悪いでもなく、体を通じて感じること、したかった。オイリュトミーには治療や芸術、子どもたちと行う教育オイリュトミーもあれば、ソーシャルオイリュトミーという、企業や社会人のグループに対して行うものもあって、問題解決への糸口を見つける助けになるそう。スローガンや理念みたいのを通じて信頼を確認するのではなく、人とこの空間をシェアしていること、それがどんなことなのかを「体の言葉」や「空間の言葉」を通じて理解することは、この先もっと大切になっていくような気がする。

今日は前回のハレルヤに続き、日本のそれに相当する「祓い言葉」についての講義と動きのプチレッスンだった。そもそも祓い言葉とはなんなのか、そしてハレルヤとの関連は何かという話の流れで、

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