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self-quarantine dairy 6/18/2020

雨の夜、いつものように窓は全開だけどTシャツ一枚だとさむいくらい、それなのにパソコンにむかったとたん、気合を入れようと思わず袖を肩までまくりあげてしまう、その無意識のくせがばかばかしくて泣きそうだよ(でもすぐ下ろした、さむい!窓も半分しめる)。今日はオンが園の日で、わたしは相変わらずベッドで見送り夢うつつ。昨日おとといとNetflixの『アンオーソドックス』を集中して見ていたので寝るのがずいぶんおそくなった。そして寝る前にふとあたらしい瞑想法(詳細はのちほど)を試してみたらすっかり覚醒してしまい、結局4時半過ぎまで起きてることに。寝られなくなった体のあの独特の重さ(というか水分がすっかり出てしまったみたいな硬直感?)と、危険!信号を送るみたいに首のあたりにピリピリ走る電気的な痺れにおびえながらずっとベッドで寝返りを打っていると、外から鳥の声が聞こえてきて、狭い部屋のなかで硬直しているわたしと、すでに明るい新しい空の下、朗らかに声を上げている鳥との対比があざやかだ。遮光カーテンをすり抜けて届くまぶしすぎる声、しばらく経てばそれはやっぱり拷問で、耐えられなくなりあわてて窓を閉めた(オンと寝落ちした松樹は代わりに起床、その後彼の生活音にまた心乱され眠れなくなった)。今日は窓を閉めてばかりの日。

園では今日、コロナでずっとペンディングになっていたオンのお誕生会だった。といってもお迎え時間の30分前、オンをいれて4人しかいない子どもたちと、先生ふたり(でもここでは先生と呼ばず、子も親も下の名前で〇〇さんと呼ぶ、それがわたしには好ましい)のささやかな会。昼寝を終え、おやつを食べ終わった子どもたちのいる和室に松樹とわたしが通される。ふつうは掛け軸なんかがかかっている床板は「季節のテーブル」として使われていて、ゲーテの色相環と季節にあわせた色布でおおわれ、下には手作りの羊毛の小人があちこちに、それから季節の花と、子たちがとってきた植物や木の実なんかがかざられている。わたしはそれがだいすきで憧れで(というのはわたしは家ではまだできてないから)、個人面談や保護者会、クリスマス会なんかで園に顔を出すたびにまじまじと見てしまう。それなのに今日は見るのをすっかりわすれた。視線がすぐさまオンに飛んだから。

頭にかぶる王冠は金の厚紙ときれいに編んだ毛糸でつくられていて、パープルのアメジストがいくつもついている。肩からシルクのマント。おごそかな表情。他の子どもたちは足を投げ出したまま、それでもしずかに先生のほうを見つめている。アウリスグロッケンの透明な響き、ライヤー(ハープ)の静かな音色、穏やかな歌声、とくべつの香料でつくられたバームをみんなそれぞれ手のひらにちょんちょん、と載せてもらい(もちろん大人も!)、それからくるくるシュッシュと手に伸ばし、静かにその香りをたのしんでみる(これは誕生会のときだけでなく、何かを始めるときに毎回やっている)。先生がローソクに1本1本火をつけていく、そのゆっくりした動きだけでも見ているのがたのしい。それからオンがここに来るまでの物語がかたられる(金の羽をつけ、三日月の滑り台、星のブランコで遊んでたころのオン、仲良しの天使に「あそこに生まれていきたいなあ」と相談して、それならと、金の羽はずして預かってもらったオンが虹の橋を渡ってこちらに滑り降りてくるーー)。他の子たちがオンに手作りの花束をわたし、先生からは今年は羊毛の小人を贈られた(去年はマーブル模様の羊毛ボール鈴入りだった)。わたしは毎度、「金の羽を天使に預けて、こちらの世界にやってくる。羽を外すと天使の姿は見えなくなるけど、いつでもオンのそばにいるよ」というところで泣きそうになる。今日はマスクの内側で遠慮なく口をゆがめた(嗚咽を堪えてるんだよ)。

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ところで、わたしがここの園に関してとくにうれしいなあと感じているのは、この園では子たちのことを〇〇ちゃんとか〇〇くんとか呼ばす、名前そのまま、省略せずに呼ぶこと。保護者たちもそうしていて、自分の子以外のこともちゃんくんナシで呼ぶのがすがすがしい。「自分が選んできた」名前そのままの響きを大切にしたいという思いかららしいけれど、ジェンダー的な観点からも好ましいとわたしは思う。その流れで最近は小学校では「〇〇さん」と誰もが名字のさんづけで呼ばれているようだけど、しかしこれはなんだか胸がくるしい。名字では家父長制がちらつくのと、ほんと、なんで下の名前じゃいけないの、そのための名前じゃないの、と思ってしまう。しつこいくらい何度も引用してしまう、お気に入りの文章をふたたびここで。

おとぎ話では、名づけることは知ることだ。わたしがあなたの名前を知れば、わたしはあなたの名前を呼ぶことができる。わたしがあなたの名前を呼べば、あなたはやって来てくれる。
ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』

もちろん、自分の下の名前が気に入っていないという人もいると思う。わたしも正直、「裕実子」ではなく、「子」もなく漢字でもなく「ゆみ」だったらいいのにと小さいころは思っていたし、今ならカタカナで「ユミ」のほうがすっきりしてていい、さらにいえば「Yumi」とユニバーサルな響きにしたいとも思うけれど(アメリカでそう呼ばれていた日々が、いちばんしっくりきていた気がする)。いずれにせよ、自分が呼ばれたい名前で呼んでもらえることは、自己肯定感にも影響すると思う(そしてわたしはオンにとっては「ママ」じゃなく「きっちゃん」なんだよね。これで保ててること、たくさんある)。

昨日、図書館で借りていたもうひとつの松村潔本、『魂をもっと自由にする タロットリーディング』はのっけからすごすぎて、えええ、ぜんぜんタロットカードの(期待していた絵柄の)説明がでてこない!とどきどきしながら、それでも夢中になって読み進んでしまった。

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