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Thisコミュニケーション最高でした デルウハ殿の生存戦略

 Thisコミュニケーションの最終巻を読みました。
 まず、めちゃめちゃ良かったです。ここ数年で読んだ漫画の中で一番ハマった作品ですし、生涯でもトップクラスに入るのが確定しました。
 六内円栄先生、本当にお疲れさまでした、素晴らしい作品をありがとうございます。
 最終巻を待ち、そして再度1巻から読み直しながら色々と書きたいことなんかも浮かんでいたんですが、うまくまとめられるか不安なので、今回は以下の2点について書きたいと思います。
 ネタバレは多分含みます。

 ・Thisコミュニケーションのここが好きだよ
 ・それが、コミュニケーションだよな


Thisコミュニケーションのここが好きだよ

 まずはデルウハ殿ですね。
 この作品凄いですよね。可愛い女の子が6人出てきて大活躍する話なのに、全ての巻の表紙に筋肉だるま殺人鬼のデルウハ殿がいて、ほとんどメインになっている。しかもそのことがしっくり来る。
 この作品の魅力は数あれど、その筆頭としてあるのはやはりデルウハ殿というキャラクターの良さなんじゃないかと思います。

 デルウハ殿は倫理観がぶっ壊れた超合理主義の凄腕軍人兼殺人鬼で、ヤバい人間です。1日3食食うことだけが生きる意味だと考えており、とんでもない食いしん坊というお茶目なところもありますが、基本的には「ヤバい人」なのに、なぜ人はこんなにもデルウハ殿を愛してしまうのか。
 理由のひとつは、デルウハ殿は殺人鬼ではあるけれど、猟奇殺人鬼ではないという点があるかなと思います。彼は殺人に快楽を覚えていないし、何なら殺人に快楽を覚えたり、スナッフビデオで興奮する人間を変態として軽蔑しているところまである。この点の「やっていること」と「頭のトび方」のギャップが面白味に昇華され、且つ彼の「狂いっぷり」をより強く印象付けます。

 このキャラ造形、初めて見た気がしています。バトルものでは戦闘狂とかよく見ますよね。「平時に人を殺せば殺人だが、戦場なら殺せば殺すだけ英雄だ! ギャハハハ」みたいなこと叫んでる狂犬みたいなキャラが出がちですが、アレは猟奇殺人鬼ですよね。「殺し屋として育てられたから、それ以外に生き方を知らない」とか「生きるために仕方なく殺すんだ」というヒットマンの造形もよく見ますが、デルウハ殿はそれよりもより「積極的に殺す」感じがします。「自分にはこれしかないから」「仕事だから」と割り切っているというよりも「殺すという手段は最強のソリューションだから積極的に取り入れたい!」という気概を感じます。そしてそれを異常なまでに正当化してくる。このバランス感覚はかなり見事だなと思いました。

 そしてそんなデルウハ殿が最大限に「殺すというソリューション」を爆発させられる、いわば殺しのユートピアを支えるのが「殺したら1時間前に巻き戻る」とうハントレスの設定で、これは「どこまでも終わっていい状況に置いたら、最悪の人間はどこまで終われるのか」の思考実験みたいだと思いました。もちろん「イペリットとの攻防戦」も作品の背骨だとは思いますが、もう気づいたらその戦いよりも「デルウハ殿はどこまで行ってしまわれるのか?」という思考実験の方にこそ興味を持っていかれている。そういう思考実験の核としてのデルウハ殿というキャラクターの造形は本当に見事。

 また、その見せ方も上手いんですよね。全体として、デルウハ殿との距離の取り方が見事というか、常に傍らに「デルウハ殿、おかしいよ」のリアクションをするキャラ(所長)を置いたり、「殺しの匠」みたいなキャラづけのギャグや映画の殺人鬼のオマージュで遊んだり、デルウハ殿に襲われる側の目線から描いたり、デルウハ殿と読者が共感、同一化するような読み方は遠ざけられている。デルウハ殿が奇妙な生物であり観察対象であるような読み方を促されているようなところがあります。この作品のもう一方の主役、「ハントレスたち」の方が「怪力を持ち、死んでも再生し、血を操る等の異能も発揮する」のに、それでもデルウハ殿の方が奇妙な生物に見えてしまう。そういう意味で、デルウハとハントレスとが戦うときのサブタイトルが「VSデルウハ」となっているようなところも小技が効いていてかなり好きです。VSハントレスちゃうんかいって思っちゃいましたもんね。VSデルウハでした、どう見ても。

 そんなデルウハ殿の特徴として「殺しに一切快楽を感じていないどころか嫌悪感すら覚えている」っていうキャラ付けで良かった~とか言ってたところで登場した「コピーデルウハ」……。そうそうこれこれ、恐れてたのはこれなのよという感じです。「この男が殺すために殺しをし始めたら終わりだ」というヤバさがあり、でも「そういうことはしない男だ」という安心感もまたある、そういう板挟みの中で、私たちはデルウハ殿に囚われて抜け出せない……のではないかと思います。デルウハ殿が好きです。

 次が、やっぱりハントレスの設定ですよね。
 「死んだら1時間前に巻き戻る」
 このただ「生き返る」だけではなく「1時間前」という設定が滅茶苦茶効いてきて話が面白くなっていたなと思いました。設定の扱い方が本当に上手かった。「殺すことで不都合な事実を隠蔽できる(1時間の記憶消去)」であり、「1時間以内に殺さないと記憶や負傷が定着してしまう(時限爆弾)」でもある、タイムリミットとしてのサスペンスを生み出す装置として非常に優秀であると同時に、「事実のどこをどう切り抜いて改竄すると全てが丸く収まるのか」のパズルとして物語全体のシステムになっている。
 もちろん、この美味しい設定を扱うのが「殺しの匠」であるデルウハ殿だからこそ、実に様々な活用方法が披露されます。特に好きだったのはやはり二本足戦での「ループ戦闘」ですね。あそこは完全にループもののSFになっていました。All You Need Is Killの世界。
 また、散々「四肢欠損などのダメージを受けても生き返れる!」をやった末の、巨大血濡れイペリット戦での「2時間前です」の絶望感凄かった。それまで10巻以上かけて散々と刷り込んできた「死の軽さ」がドカンと裏返った瞬間で、思わず呆然としました。
 作品全体がデルウハ殿という奇妙な生物の思考実験のようだと言いましたが、同時にこの「ハントレスの設定」を用いることでどんなドラマを成立させることができるかというパズルの連続でもありました。そして見事に様々な展開を織り込んでくださった六内円栄先生は本当に凄い……。

 単行本組でしたので、六内円栄先生の幕間のコメントページも作品の非常に大きな楽しみのひとつでした。元々「作者コメント等のおまけページが好きなら単行本で読むの絶対おすすめ」と聞いていたのですが、実際思った以上に良かった。
 追加の設定資料とか軽い裏話とかを想像していたのですが、想像以上にぶっちゃけて「創作の話」をしてくれていました。今回の話はこういう効果を狙っていて、最初はこういう風にしていたものを、それじゃあ弱いとなって急遽こういう形に書き換えたのですが、それが実にいい形に収まったので満足です。みたいな話がたくさん聞けて、非常に面白いと同時に勉強にもなりました。「作者があまり顔を出すべきではない」みたいな考え方とかもあるとは思うのですが、この作品においては「作者コメントページは絶対に読み飛ばさない方が良い!」と強く思います。

それが、コミュニケーションだよな

 Thisコミュニケーションって、不思議なタイトルだなと思ってはいました。Disコミュニケーションとかけているのは分かるんだけど、Thisってどういうこっちゃろうと。最終巻を読んだ今は非常に強く納得しています。そう、それがコミュニケーションだよな、と。

 この作品はディスコミュニケーションに満ちています。デルウハは意図的に自らの目的を隠蔽し、誤解によって物事が上手く運ぶように状況を操作し続けます。ハントレスの6人も、バラバラの個性とそれぞれに抱えたコンプレックスや敵愾心により派手にぶつかり合い、連携を欠いて同士討ちにもつれ込んだりしています。
 その他にも脇役も含め、数多の人々が「ほんの一握りのコミュニケーション不全」のせいで人生を大きく狂わされたり、破滅したり、或いは他者を破滅に追いやっていきます。
 第3話、むつに暴言を吐いたよみを叱る中で、デルウハは以下のような言葉を述べます。

「話し合いだと!? あいまいな自己解釈を前提とした会話用の言語表現に何ができる! 相互理解なんてもっての外だ!」

 僅か十数ページ前、この話の冒頭にある「戦後の混乱に乗じて導入されたエスペラント語」に言及するシーンは、まさにこの台詞と対になっていると言えるでしょう。デルウハは「エスペラント語のおかげで、外国から迷い込んでもこのように皆さんと会話が楽しめる」と明らかな営業スマイルを振りまいていました。
 談笑する直前のデルウハの怪訝な表情からも、彼が「エスペラント語によって、世界中の人々が遍く分かり合えるようになった」というような考え方に批判的であることが暗に示されています。
 「言語は人と人とが分かり合ったかのように見せかける行為(会話)においては有用であるが、人と人とが真に分かり合うことなど到底不可能である」というのが、デルウハの基本原則になっています。この信念は、第43話において自我を獲得したイペリットとの対話からも伺えます。

「自我を持つとは 自他の境界に自覚的であるということだ (中略)…つまりイペリットという種の中でお前だけが この先の時間全てを「彼らと自分は別の個体である」と感じながら生きねばならん(中略)人間側に来れば少なくとも全員が同じ孤独を持っている!」

 イペリット説得のための詭弁ですが、ここで述べられる「孤独」という言葉の孕む絶望感こそ、十全なコミュニケーションのあり得なさであり果敢なさ、デルウハの「コミュニケーション不信」の根本にある思想だと言えるでしょう。
 だからこそ、彼は殺します。話し合いによる相互理解等という幻想に頼るよりも、殺害による障害の排除を進める方が圧倒的に合理的に物事が進められる。この信念が彼を「殺しというソリューション」に駆り立てます。そしてこの作品の世界、一握りのコミュニケーション不全によってシステム全体が機能不全に陥るような破滅に満ちた世界の中で、彼の歩むその超合理的な「コミュニケーション不信」のスタンスは、目を見張るほどの成果をあげていきます。

 しかし実はデルウハのこの「コミュニケーション不信」は同時に、ひとつのコミュニケーションでもあります。
 第29話、打倒コピーデルウハのために吉永神父に共闘を持ちかけたデルウハは、独りよがりで対話を拒否する吉永を「そういうところだよ!」と怒鳴りつけます。

「テメェのコミュニケーションは全部それなんだよ! 「正しいからいいだろう」っつって何もかも端折って! 積むべき誠実さを放棄している!」

 吉永はこの主張を「人と関わるときは誠実さという労力をかけろ」という主張と言い換えています。このデルウハの主張もまた、吉永を説き伏せるための詭弁にも見えます。しかしこの言葉の持つ、「労力をかけろ」というメッセージについて考えたとき、それが詭弁であったとしても、デルウハはここで「詭弁という労力」をかけていることになる訳です。

 そう考えてみると、デルウハは「殺すというソリューション」以外にも様々なコストを支払うことで、人を動かすことを繰り返しています。
 例えば第4話冒頭、「わざわざ教会へ出向き、敬虔な信徒を演じることで、むつがデルウハを疑っていることを「実際に吉永の口から聞いた」という事実を作った」ことが述べられています。このようなアリバイ工作において、デルウハの綿密な計画と弛まぬ努力には驚かされます。デルウハは何も舌先三寸で相手を丸め込むだけではなく、「信じてもらう」ためであれば何でもするし、自らを危険に晒し、実際に骨折してみせることも厭わないのです。ただその手段の中に、倫理観を欠いた殺害などの手法が紛れ込んでいるだけで、デルウハは彼の言葉を借りるのであれば「積むべき誠実さ」を根気強く積み上げています。

 そしてその積み重ねは、たしかに「人間関係」というものを、デルウハの周囲に構築していきます。都合の悪い展開を殺してやり直したり、誰かが先に言った「キーワード」をリセットして簒奪したり、好き放題やっていますが、そのひとつひとつが「信頼関係」を構築するための労力であり、それは着実にハントレスたちの中に積み上げられます。そうして得た「信頼」は当初は表層的なものに過ぎなかったかもしれませんが、長い時間をかけてデルウハ自身も想像しなかったような「成長」を彼女たちの内へともたらし、そのことは翻ってデルウハ自身をもまた変えていくのです。

 そうして辿り着いたのが、「お前らを殺してやり直すのはもう無意味」という言葉でした。「殺しというソリューション」は、デルウハにとってコミュニケーション不信の象徴であり、相互理解の絶対的な不可能性に対するひとつの生存戦略だったはずです。自分以外は信頼できないから、全てが自分の思いのままに動くよう働きかける。その障害になる他者はどんな手段でも排除する。しかし、彼はそれを手放した。つまり永遠に分かり合えない他者との間に良き在り方を夢見る、自己の完全優位の状況を維持するのでなく他者の存在を容認し、受け容れる。その決意が「どうか共にここで生きてくれ」という祈りのような言葉として、彼と6人の少女たちの間に産み落とされた。
 信頼関係というものは、結局のところ「ある時点までの関係性の積み重ねに対する事後的な評価」でしかありません。それはある瞬間の問題ではなく、時間的な幅を持った、ある種のひとまとまりの関係性を以って初めて私たちに感じられます。村上春樹は「スプートニクの恋人」の中で「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と述べました※。その誤解の総体というものがどのようなものなのか、Thisコミュニケーションという作品は、そしてそのラストは鮮やかに示してくれていたように思います。
 愛さえも誤解の総体と言ってしまえば果敢なく思えてしまうかもしれませんが、我々は誤解という不断の努力を積み重ねた先に愛を見つけることができるし、逆に言えばそれを積み重ねることでしか、愛に辿り着くことはできない。
 それが、コミュニケーションだよな。と私は思います。


※村上春樹はデビュー作「風の歌を聴け」の冒頭を「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」から始め、「「語る」という行為の不可能性と、それでも「語ろう」とすること」について書き続けている作家です。彼の作家性を鑑みたとき、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」という言葉もまた、この「ことば」を間に挟んだ他者との間の永遠の理解不可能性と、その果敢なさを共有する我々におけるささやかなる「祈り」としてのコミュニケーションのことを言っているのだと、私は解釈しています。非常に長くなったので注釈として外に出しました。

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