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【香水小説】香はかく語りき⑨Signorina

毎月香水からインスピレーションを受けた短編小説を綴る本連載。
第9回目の香水はフェラガモよりSignorina。

https://www.ferragamo.com/shop/jpn/ja/women--10/香水/シニョリーナ-オーデパルファム-749716--10

それではどうぞ
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危ういな。
彼女の八重歯をみてそう思った。

特段美人というわけでもないし、他の女子と戯れている時は目にも留めなかった。
しかし、あれはゼミの飲み会の時だったか、座敷に通された僕たちは二卓のちゃぶ台についた。

彼女は僕の斜め向かいに座っていたが、別の卓で両隣を友人に囲まれていた。
少し手をつけられただけで冷えていくホッケや、もう誰のものかもわからなくなったお通しのめかぶが僕の前に寄せられてくると、腹の底にあった居心地の悪さが胸まで込み上げてきた。
それを飲み下そうとウーロンハイのジョッキに口をつけると、不意に彼女と目が合った。
彼女は顔をこちらに向けて、キュッと口角を上げた。
少し鼻に寄ったしわ、そして八重歯。
彼女の顔だけが鮮明に感じられて、彼女の服も、髪も、隣にいる友人も、油絵のように抽象的に見えた。

数秒間、頭と体が連動しなくなったのか、ジョッキを傾けたのに飲み込むことができず、顎からダラダラとウーロンハイをこぼしてしまった。
ジーパンのシミをおしぼりに吸わせながらもう一度彼女を見ると、景色はもう元に戻っていて、彼女は向かいの友達の話に真剣に耳を傾けていた。

その後も僕のウーロンハイは薄まり続け、会は終了した。
みんながスニーカーやらサンダルやらをつっかけたまま店の外に出ていく中、僕は丁寧に靴紐を結び直した。
店を出て、誰かが解散を宣言するまでの、あの時間が苦手だ。

数分かけて右足を結び終え、左足に取り掛かっていると、隣に気配を感じた。
彼女だった。
友人にミュールを取ってもらった彼女は、僕の隣に座って足首のベルトを留めようしていた。
その足首の曲線と白い指先を、視界から外そうとしたができなかった。
全ての感覚が彼女に向いていた。
瞬間、ほんの少しだけ香りを感じた。
花とも果実とも言えない若さの象徴のようなそれは、僕の中で瞬く間に膨張し、再び脳を停止させた。
僕が左の靴紐を結び終わる頃、すでに皆は解散していた。

結局、彼女とは一言も交わすことなく、僕は大学を卒業した。
しかし、身の置き所がなく感じる時、今でもあの香りを思い出してしまうのだった。

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